ちくま文庫から『色川武大 阿佐田哲也エッセイズ』が刊行中。

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坪内祐三福田和也リリーフランキーらによる新文芸誌『en-taxi』2号でも
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元『新潮』編集長坂本忠雄氏、長部日出雄氏、そして坪内氏による、短編集『百』についての鼎談が掲載。
ちょっとしたミニ色川ブームという感じで、それぞれ楽しみに読んだ。
が、感想の方はちょっと微妙…

坂本 僕が凄いと思ったのは「地面は泥」と見ていたところですね。

坪内 空襲を受けた戦後の何もない神楽坂を見て、家だとか形はあっても、その下は結局、土だという…。

坂本 土ではなく、泥ですよ。

こういうやりとりにも端的に表れているのだけれど、正直、この鼎談での坪内氏は、ちょっと底を見せちゃった感がある。
長部氏が愚直な苦労人らしい古典的な文学体質の人なので、色川武大の二枚腰の部分を強調する役回りになってしまったところもあるだろうけれど、最終的にどうしても坊ちゃん、かつ80年代的な、自身の根っこに対する身贔屓が無自覚に覗いちゃってるところは、彼でさえも正直あるかなと。
異様に老成してる色さんに反射させると。


小さな我や作為を放棄することで、却って実を取るということに自覚的、いや、自覚とかそういう表面的な認識じゃなく本当に身体がそう動くまで本気で添うところというか、長部氏、坂本氏の強調する愚直な重さ、優しさも、本気であることで二枚腰の融通、インテリの相対的目線の小賢しさをカバーするということ。
そういう「構造の認識」だけでは越えられない、人生に対する構えの有機的な深さ、スケール感に、やはり圧倒的な差があるなと。
根っこのところの意識が文系活字プロパーの社会内に安住しちゃってる感を、正直持ってしまった。


『後ろ向きで前へ進む』『1972』などの著書で彼自身も書いている、「体験の一回性」の喪失というのがここでは決定的に大きいと思うのだが、そのあたりを、彼自身がくぐった時代の自己検証が、ディティール込みで実感的に書かれることを期待したいと思う。


同様のことは、ちくまの『色 阿佐エッセイズ』にも言えるのだけれど、彼の『うらおもて人生録』や『私の旧約聖書』は、その一章だけを抜き出すと、収まりの良い通俗人生訓のように読めてしまう。(1巻解説の鎌田氏もちょっと触れていたけれど)
本当は、矛盾するように見える各章の結論を、行きつ戻りつしながら染み込ませるようにじっくり読まないと意味が無いようなものなのだ。


表紙の南伸坊のイラストも含め(いわゆるこの辺の「昭和軽薄体」の連中と色さん、近いようで実は確実にテイスト違う。色さんに「ずらし」って実はないし、逆に軽薄体の連中に圧倒的に欠けてるのがロマンティシズム。あと、細かいことを言えば、手に持ってるのは「競輪新聞」にして欲しかったとか…)
「モダンでカワイイオジサマ」として、コミさん同様、昨今のモダニズム好き文系少女達に再発見を促そうとの意図はわかるのだけれど、そこに収まりきらない、人間観、世界観の間口の広さ、レアでゴリっとした思考(指向)という彼の個性の半分が削り落とされている感は否めない。
これは、意図的な戦略、というだけでなく、編者の無意識の限界でもあるんじゃないか。
いわゆる不良性感度希薄な「ちくま臭さ」というのか…
(とは言え、2巻はレアな『御家庭映画館』や「話特」連載の『なつかしのメロディ』も読めるスグレモノ、でもある。
特に、『なつかしの〜』の『みっちゃん みちみち』あたりは
彼の執着心の禍禍しさがよく出てる、屈指の名エッセイだと思う。オススメです!)


先日の日記でも骸吉君がライトノベルについて触れていたけれど、いわゆる「読書層」の趣向、評価も、ライトノベルに偏り過ぎてきているのではないだろうか。
ライトノベルといっても、ここでいうのはいわゆるオタク向けのアレではない。
例えば色川をはじめ、田中小実昌殿山泰司小林信彦野坂昭如などなど、力の抜けた洒落者個人主義オヤジ達の軽みを、便宜上そう呼んでみる。
これに武田百合子さんの日記やエッセイなどを含めると、もろに現在の俺の趣向とも重なるわけで、何をか言わんやという感じで面映ゆくもあるのだが…
確かにこのあたり、酸いも甘いも潜り抜けた、物のわかったオトナが敢えて軽味を楽しむといったふうで、こちらも安心して楽しめるのだけれど、昨今、活字読者全体の層が狭くなってしまったせいで、読書人として残ったのが、結局このあたりのモダンな趣味人テイストを愛好するような層だけになってしまい、文学の評価や価値も、この層の趣向に偏り閉じている感も否めない。
しかし、文学って、もっと広く世界のあらゆる諸相を映し、伝え、残すもののはずではなかったか?
青年が成長の過程で必要とするような、直球で世界や自己を突き詰め対話するような青い文学、もっとベタだが人間的スケール感を感じさせるような人物の証言。
普段触れ合ったり向き合ったりすることが難しいからこそ、書かれ、読むことに価値があるような活字。
一方で、そういうものの価値を伝えていくことが、おざなりになっている気がしてならない。


これらの、雑多で広い世界との対置の中でこそ、我々の好きなマイナーポエットな感性、文学もまた、ナイーブなナルシズムへの自家中毒に堕することなく、緊張感と鮮度を保てるってもんでもあるんじゃないかな。