『時にはいっしょに』(86年 脚本 山田太一)

bakuhatugoro2011-02-10


先週から今週にかけて、CSフジテレビtwoで連日放映してる山田太一86年の連ドラ『時にはいっしょに』を見ていた。細川俊之の父親と伊藤ゆかりの母親に、南野陽子角田英介姉弟。大学助教授と専業主婦の家庭の離婚話。
マンガみたいにダンディな風体の細川俊之だから、却って現実の恋愛の場での小心な保身や、家庭での取り繕いの狡さ、情けなさが際立つ。
角田英介松田洋治系の僕ちゃん感が絶妙に気恥ずかしい良い芝居(永瀬正敏も同系統の芝居で、南野のストーカー化した同級生役がはまってた)。夏休み、レンタルビデオ屋通いで仲良くなったバイトの洞口依子を、留守中の家に上げてシャワーを貸すと、調度折悪く、父とアパート暮らしを始めたばかりの姉と鉢合わせになる…といった、いたたまれない場面が続出。
一見しっかり者な優等生の南野陽子は、実はちょっと軟派者風の先輩坂上忍に片想いしているが、坂上はなんと胴口と付き合い始めてしまう。
伊東ゆかりは、矢崎滋と田中健の兄弟が経営するおもちゃ屋に勤め始めるが、ようやく仕事に慣れると、兄弟両方に惚れられたためにクビになってしまう。
離婚前は、家族そろってレコードを聴き、ピアノ弾きながら合唱する、気恥ずかしいくらいマイホーム幻想を絵に描いたような連中だったから、その後の各々の色恋沙汰の描写の気まずさが半端じゃない。
と、こう書きならべると随分意地悪なドラマのようだけれど(実際、若い頃の自分は、本作に限らず格好悪さやいたたまれなさが過剰に強調されすぎているように感じ、山田太一ドラマが苦手だった)、そうじゃない。様々な立場の人間の中に併存する強さと弱さ、身勝手さと優しさ、そうした矛盾(そして、どう転んでも「無傷の立場」というものはないということ)をさらし、しかもそれをわかりやすく、各々が長セリフで独白する。
この人はこういうことを言いそうという常識的なリアリティを時に逸脱しているように見えるくらい(それが時に、こちらの予断を砕き、「本当にそうなのか?タカを括っているんじゃないか?」と、虚を突く効果も生む)、様々な立場、様々な考え方を喋らせ、そういう人たち同志を衝突させ、擦れ違わせる。
テレビドラマという、敷居が低く、受け手の集中力が期待できない媒体の長所短所をすべて引き受けて、徹底的にわかりやすく、そして容赦なく切り込む。
このやり方を、若い自分は「リアリティがない」「格好悪い」とも感じ、また色々な立場に容易く理解を示して見せ過ぎる文化人っぽい軽薄さとも感じて反発していた。けれど今はむしろ、こういう「気まずい」「恥ずかしい」部分に踏み込み、余さず引き受けることが、そうしたなかなか体面上意識するのが辛く、恥ずかしい部分を抱える、不安定な現在を生きる人々の不器用さへの、根本的な優しい肯定に貫かれていることを強く感じる(とは言え、やはり自分が10代20代の若者だったら、今でもやはり「そうじゃなくてもしんどい毎日に、どうしてわざわざ傷口に塩を塗るようなことしなくちゃならないんだ」と、拒否感持っただろうとも思うが…)。


山田太一のドラマの多くでは、各々の登場人物が、抱える問題(内心の恥ずかしさ、後ろめたさ)をギリギリまで追い詰めるられた末、最終回に一同がテーブルを囲み話し合う。本作でも、結局恋愛に敗れた姉弟とそれぞれの相手、そして別れたままおそらく修復の見込みはないかつての家族がテーブルを囲む。
一人の自由を手に入れた各々の新生活は、結局なかなかうまく運ばないまま。けれど、そこでそれぞれが様々な気まずい自覚と、疲れと孤独を経験する。かといって、再びかつての家族と元の鞘にとはなれない。ただ、一度は家族だった者同士、こうして時には食事をしようと、各々が少し寂しい笑顔を見せる。これもこのドラマに限らずだが、その結末を「これが答えだ」「これが現実だ」と、作者が示しているわけじゃない。各々に各々の事情と現実があり、ここで出した理屈や結論も、きっと別の局面では簡単にひっくり返る。
それを超える確かな答えなんて、各々の小さな人間にはなかなか持てはしない(けれど、持とうとすることが無意味だとも、彼は言っていない。確信を強く持とうとすることが、時には他の立場の人間を傷つけることもあることを、一方で描きながらも)。


世の中には一方でなしくずしの価値相対主義への居直りが溢れ、その裏返しのように自身の正義やヒロイズムへの開き直った独善にも陥りやすい。ドラマは、その限界が露わになる気まずさを露出させながら、同時に一概に否定もしない。
若い自分は「じゃあ、人は何を支えにして(あるいは起爆力にして)生きればいいんだ!」と反発するが、一方で今の自分は、答えを求めつつ、限界を受け止め保留する優しさとしぶとい強さに惹かれもする。
人ってやつは放っておけば、隙あらば少しでも手前勝手にやりたくなるものだし、けれど同時に、何でも自分一人の中で処理してやっていけるわけじゃない。たとえ、具体的に「良い結果」に繋がらなかったとしても、人恋しさの中で揺れ、代償行為のように他人を構いたくなり、拙い経験の中で少しだけ何かを知る。そんな人間たちを、繰り返し見つめ描く。
山田太一は根本のところで、チェーホフによく似ていると思う。


『時にはいっしょに』を見ていて、2年前の彼の最後の連ドラ『ありふれた奇跡』を観返したくなった。初見時は、彼独特のセリフ廻しに、表面的な現在風俗とのズレを感じたり、突飛で奇妙な話だとも思ったりしたが、今観るとただただ、主人公の二人や周囲の人たちが愛おしい。
だんだんお互いの弱みが露出して、あけすけで気まずい衝突に見えていたものが、そんなふうに踏み込み合える親密さへの過程でもあること、そして、そうした彼らへの作家の優しい視線がはっきり感じられるようになる。
山田太一ドラマは2度見たい。

「私は、東京の大空襲で、家族も親戚も亡くして、11歳から1人でね、日本がどん底の時代に、どん底の子供だった。
だからね…だからどうしても人間ってもんは、嘘つきで、冷たくて、インチキで、ケチで、裏切りで、自分が大事で、気を許せないってふうに思えてね。
表には出さないけど、その常識で間違いは無いと、思ってきた。
助け合おうとか、善意とか聞くと、何言ってやがる!いざとなれば、何でも踏みつけて逃げ出すくせに!なんて、思っちまう。
しかし、それはどん底の常識でね。今は、どん底じゃない。どん底なんて言う人がいるが…どん底は、こんなもんじゃない!
どん底じゃない時代に、どん底の用心で生きちゃいけないよね」
「子供の頃の思いはなかなか抜けなくてね。危なっかしいじゃないか、やめとけ、なんてことを言いたくなっちまう。
それでも俺は、用心なんかするなと言いたい。心配の種なんかいくらでもある。数えるなと言いたい。乗り越えられる、と」
ありふれた奇跡』より

関連 『銭ゲバ』と『ありふれた奇跡』2
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20090324