続 「面白い」と「正しい」は違う!

bakuhatugoro2004-08-04

じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他のおこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。
太宰 治『かくめい』

まず、トラックバックへの返答から。


http://d.hatena.ne.jp/kikori2660/20040803

でも、id:bakuhatugoroさんって同じ文脈で“イラク三馬鹿批判派”を批判していると思うのですが。そういう揚げ足取りをしそうなのがゴロゴロいそうだ。しかしマスコミの、あの三馬鹿に対するツッコミは結局どこへ行っちゃったんだろうね。

よく意味が分からないんだけど、人質事件のつるしあげへの違和感書いてるから、あいつはサヨクだぜ、とかそういうくだらないことかな?
以前、下の方のコメント欄でも、当時3人の甘えと不見識を批判していた山形浩生さんとぶつけようって画策してたヤツがいたけど、物事にはいろんな角度や側面があるってことを見られずに、安直に正解だけが欲しがるような思想、論壇バカ的単純発想はホントくっだんねえよ。


彼ら3人の質を見抜けるようなリテラシー訓練の必要と、甘えた中途半端なアカが世間様に迷惑かけたからと、はばかりなく苛めに走るイジメ根性の指摘は全然矛盾しない。
浅羽通明さんは、ご自身のニューズペーパー「流行神」で、「非国民」等と同義の世間における新たな差別語としての「自己責任」との卓見を書かれていた。リクエストあれば紹介しますが、卓見に敬意を表してここは購読をおすすめします...って俺もたまたま友人に読ませてもらったんだが... asaba@pico.to)

# bakuhatugoro 『「主権者としての強さを自覚しないと、そういう組織的な力に自分たちの生をいつの間にかコントロールされる事態になるということです」事実として認めます。そして、民主主義という形をとっている以上、リテラシーを上げ、強い市民でなければマズいことになるとも思う。事実として、消費相対主義にあぐらをかいている間に、こうした自体がどんどん進行している。「現行法や市場を万能と思うな」、という町山さんの報告にはとても意味があると思う。しかし、それと同時にやはり穏当な現実認識、自己認識と人間観は必要だと思う。そのリテラシー、「正しさ」自体をを絵に書いた餅として一人歩き(時には暴力的暴走)させず、しっかり手元のリアリティに繋ぎとめておくためにこそ。民主主義を暴走、退廃させないためには、こうしたダブルバインドが必要だと思う。上に引いた福田恒存の言葉のように、「私は民主主義を否定しているのではない、民主主義だけでは駄目だと言つてゐるのである。」というのが僕の立場です。』
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040802コメント欄より

ところでkikoriさんって、以前、町山さんのところで暴れてた人だよね。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040626
http://d.hatena.ne.jp/kikori2660/20040630

日本の国益の定義の仕方とか、自身の定義からはみ出すものに対する「日本人の資格は無い!」なんて、排他的な態度が思想的「寄らば大樹」に見えて、俺はどうにも好きになれなかったんだけど、「町山さんは異邦人として社会を見ているからそれぞれの国益というのをリアルに考えていない」っていう指摘は、「差別的叩き」とかとは違う次元で、重要だなと思っていた(ら、削除しちゃってるんじゃん。とほほ)。


下のコメント欄で、町山さんは

「量的に弱い個人」であっても質的な強さを持てば強大な権力や財力に立ち向かえるという可能性を示すことが重要なのです。つまり説得力とか芸術的な喚起力は貧富の差や人種と無関係に持ちうるものであり、それで個人が政府や企業と戦えるということは大きな希望です。ていうかヘタレの人はそういう前向きなものを観るとさらにヘタレた気分になって反発しちゃうんだよね。

と言われている。
民主主義、自由競争が採用されている世界を生きている以上、これは大切な希望だし、俺も支持したい。
けれど、それとまた違う次元で、誰もが町山さんやムーアじゃない、という現実がある。
説得力や芸術的喚起力において強者とはいえない人間にとって、そうした生き方が自由競争社会を生きていく上での希望に成りえるのか?
もし、そうじゃなければ、自分の力ではどうすることもできない不平等、不公正や差別が「当然のこと」としてまかり通っている世界を生きていくために、また別の希望や世界観の持ち方を必要とするんじゃないだろうか?


例えば「世間」に埋没することで守られる、とかね。


町山さんは、その才能、器量によって、ある程度世間を突破し、自由になれた人だ、と、とりあえず思う(からこそ、岡田さんとのことにはちょっとムキになってみた)。
だから、単純な一つの世間、国益から自由に、公平や正義を標榜できる。
しかし、ヘタレな多数にはそれができない。
それで過度に「ナショナリズム」を必要としたりもする。
生きていくために群れ、国に依存していることに対して自覚的だったという一点では、あそこでのkikoriさんの発言にも意味があった。
だけど、群れるってことが、そうした弱者のエゴで、恥ずかしいことって側面もある、って自覚が、kikoriさんはじめ、最近の妙に元気な「愛国者」クン達にはちゃんとあるんだろうか?
例え「みんなやっていること」だったとしても。


でもね、国益の話、気持ちはちょっとわかるところあります。
『ボーリング フォー コロンバイン』の、銃社会の歴史アニメじゃないけど、統一の為に構造的に敵を必要としてるアメリカが、協調路線の民主党で内政に行き詰ると、一国主義の共和党が出てきて、対外的に叩かれたり行き詰るとまた民主党が...ってふうに、うまい相互補完というか、今度のブッシュのことにしろ、傲慢な保守と偽善的なリベラルの2重構造使い分けて、でも結局のところ本当の本音はアメリカ人はアメリカのことしか切実には考えちゃいないというか、その都度アメリカの内政に世界が振り回されてるだけなんじゃねえの?って気分は正直ある。
本当はケリーこそ、世界帝国としてのアメリカの再生を指向してる、なんて話を聞いたりすると、もう俺のような素人は目が回ってくる。
いっそブッシュがやっててくれた方が、傲慢やポカがわかりやすくていいんじゃないの?、なんてね...


けれど、ジャイアンの暴走に擦り寄って保身するスネオ国家の方からマクロに見るとそうも見えちゃうんだが、町山さんも丹念に書かれてるように、市場万能、受動的消費社会の中でなし崩しに進行する、格差の拡大や強者、企業の横暴、暴走への抵抗とか、目前の具体的な争点をはっきりとそれぞれの優先事項として持ち、アメリカ国民たちは自分達の戦いを戦っている。
そんな入れ子構造だからこそ、どっちにも属さない(属せない)ムーアみたいな人も、構造を補完する専業のツッコミ屋みたいなものとして、また必要とされてたりもするようにも見える。


どうせ何もできない、正義なんてないって、言ってんじゃないよ。


僕達に今必要なのは、よその戦いを悪者退治のように見て、安全圏から気分を仮託し溜飲下げるなんてことじゃなく、アメリカでなく俺達自身の立場、自分にとっての具体的な優先事項を、きれいごとじゃなく、そのエゴや保身の部分も含めてしっかりと自覚し、それを引き受けることだと思う。


自分をきちんと知らなきゃ、生存競争を戦う相手に対し、リアルな仁義も正義も立ちゃしないだろうってことだ。


...なんてこと書きながら、自分でどっか空々しいな、とも正直ちょっと思う。
俺自身、本当は適当にだらしなく暮らしてる(そして暮らして行きたい)、怠け者のボンクラだしな、とか。
そう、町山さんはご自身を、ボンクラだと自称される。
普段オッパイやカンフー映画のことしか考えてない、バカな浮動層だと言う。
俺も、町山さんの中坊男子のアホな初期衝動に殉じた芸風が大好きだ(だから白状すると、「宝島30」はちょっとエラそうでムカつくところがあったけど、「映画秘宝」、特に「イエスタデイワンスモア(えばくり)」は、今、あらゆる連載の中で一番楽しみにしてます)。
でもね、はっきり言って、町山さんを、俺らと同じ、アホでマヌケなボンクラ浮動層だとは思わない。
町山さんは、確信犯、どストレートなリベラリストで、ヒューマニストだよ。
照れのセンスと、自分自身のパッションの激しさがあるから、嘘くさくはないし、表現がベタにダサくならないだけでね。
彼がボンクラを自称するのは、「俺だって同じさ、だから君にもできるよ」という優しさだとも言えるし、彼と俺たちとの立場の違いを無視した、酷薄な無責任とも言える。
まあ、端的に言って、「煽ってる」ってことだね。
彼がどう言うかはともかく、俺は、彼は確信犯だと思う。


煽られた俺たちは、高揚し、熱狂する。
(特に、気持ちのまっさらな若い子なんかは、熱狂もひとしおだろう)
しかし、目的が達成され、高揚もピークに達し、何かを達成したような気がした後、実は俺たちは何も変わっていない。
「そんなことはない、確実に世の中は良くなった」と、きっと町山さんは言うだろう。
そうだ。政治は大切だ。でも、それは俺たちひとりひとりが「どう生きるか」って問題とは、実はあまり関係がない。
高揚が去った後の空虚に耐えられず俺たちは、次の高揚を探すだろう。
だけど、そんな、気持ちよくって、かっこよくて、おまけに誰はばかることない安全な正義で、なんてことそうそうあるわけがない。
外から与えられた高揚を「消費」することに慣れた後には、必ずアパシーが来るだろう。
「結局、実感的に何も変わらないうちに、飽きて忘れちゃった...」という退屈がやってくるだろう。


その時、必ず岡田さん(的な人が)つぶやくよ。
(つぶやかなくても、君の心の中から聞こえて来るはず)
「結局、軽薄な流行ものなんですよ」ってね。
高揚の波が引いた途端、流行遅れの正義は陳腐になる。
便乗してたことが恥ずかしくなった人たちは、当時の自分なんか引き受けることなく、知らん顔するだろう。
そして「結局は...」って気分だけが残る。
広瀬隆の「危険な話」ブーム受けての、反原発騒ぎとか、今どこ行った?)
その後、今度はそうした「クールで穏当」って気分も飽和して、退屈すると、また今度は「正しさ」がない後ろめたさがむくむくと出てきたりして。
「空気に便乗した後乗りや保身」しかやってない自分を棚に上げて、こんなループを繰り返してるうちに、どんどん正義や言葉の信頼は安くなる。
知れず知らずのうちに、ジワジワと、ヌルくて曖昧な、それだけにタチの悪い、無自覚、無責任な「なしくずしの厭世」が蔓延していくだろう。


「そんな大袈裟な、自分達はもっとクールにやっている」
と、あなたは言うかもしれない。
あくまで、政治的な、冷静な判断だと。
うん、それはいいよ。
だけど、「目的が正しいから」そのために浮動層はどんどん煽っていいの?
煽られておかしくなってるような田吾作連中のことなんか知るかってか?
バカにした話だよね。
(ちなみに、本当にあなたたちが戦うべき田吾作は、あなたたちの批判ごときを真に受けて揺れたりしない。平気でダブルスタンダードでスルーしちゃってるよ)
あるいは町山さんなら、「そんなことでバランスくずすような根性なしでどうする」、と言うだろう。
それはそれで正論だ。で、じゃあその後どうするの?
俺もヘタレやバカは嫌いだけど(自覚のあるバカは好きです)、バカやヘタレを軽蔑しきってるくせに、一方で媚びて人気取りしたり、煽って脅したりしながら、後は知るか、なんて思ってる傲慢なカシコイ連中がイチバン大嫌いだ!
俺はそんな、正しさが敷居の低い、インチキなものじゃ嫌なんだよ!!


例えば、俺が心配してるのはこういうことだ。
町山さんが国民皆兵論者であるように、俺も「平和はタダじゃねえ!」って現実に目をつむってカッコつけながら、面倒はしっかり自衛隊に(蔑んでるくせに)押し付けてるような日本の現実が嫌いだ。
大して使いモノにもならないだろうし、すぐ根があがりそうな気もするが、一年くらいなら兵役に耐えてもいいかな、なんて思ったりすることもある(かと言って、自分から自衛隊に入るほどの公徳心もまたありゃしないんだが...)
対外的、政治的にどうこうってことよりまず、俺たちひとりひとりが、「自分の見たいもの、思いたいもの」を超えた、世界の理不尽な広がりを体感する通過儀礼として、国民皆兵も悪くないんじゃないか?とも思う。


が、その時、

もし米軍のすぐ隣に自衛隊が駐屯し、同盟軍の兵卒が、そういうどー見ても人道的に問題ある行為をやってるのを目撃してしまったとする。正義感ある自衛隊員が「いかに同盟軍とはいえこれは問題あるだろ」と上官に具申しても、上官は「我々は安保体制の枠組下にある、アメリカ様に文句をつけるな」と、米軍の末端兵卒の勝手な粗相さえも、アメリカの国家政府の公式な意志かと一方的に勝手に萎縮自粛して黙認ほっかぶり……ところが後になって、その事実がマスコミにすっぱ抜かれ、当のアメリカじゃアメリカン・デモクラシーらしく身内と言えど勝手なマネをした下っ端兵卒はしっかり批判され、一方「米軍の捕虜虐待を知ってて黙認した自衛隊」などと非難されるという事態になるのではないか……と。
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20040805

こういう事態になったら、俺はやりきれんな、と思う。
とてもそこで、周囲の空気を払いのけて、きっぱりした態度が取れる自信が俺にはない。
というか、会社なんて単位で考えたって普通そうだろう。
だけどね、今ムーアに熱狂してる人って、きっと俺に石を投げてくるだろうなって気がするんだよ。
いい気なもんだなってムカつくけど、でも、誰が何と言おうと「仕方がなかった」と一人で胸をはれるような自信もない。


とにかく、「できない」っていう、自分の消極的な弱さを自覚し、表明するってことは、本当に難しいことだ。
こんな時、何を根拠に意思決定すればいいと思う?
あるいは、どういう理屈で、自分を守ればいいのか。


俺の身の丈をはるかに超えて、ここがはてな有数のホットなスポットと化してるこの機会に、みんなに訊ねてみたい。


最後に、一連の文章が難しいとか、何が言いたいのかわからんという声を結構聞くので、俺自身の未熟の部分は敢えて棚に挙げ、俺の大好きなエミール・クストリッツァアンダーグラウンド」のパンフに町山広美さんが寄せていた、これも当時心をつかまれたフレーズを引用(決して、嫌味じゃないよ!)。

マルコは「金」に、クロはチトー万歳!という「主義」、ナタリアはどれだけ男に愛されるかという「女の魅力」に、自分の拠りどころを求めている。正しさを求めている。ひとつの正しさに寄りかかり、他を見ない。そして、思考を停止する(それは、混乱に飲み込まれずに生き延びるための知恵でもある)。正しさを求めるのは、持っているブランド品の数でもいいし、もちろん宗教でもいい。何だっていいのだ。
自分で自分を洗脳して、その正しさをゆるがすような他の価値観を排除する。もしも正しさがゆらぐことがあっても、考えない。考えてしまったら、恐くなる。思考は停止して、かたくなに信じるだけだ。クロのように、何を信じていたのかわからなくなるまで。
ひとつの正しさに寄りかかって、他を排除しないこと。それは”複雑さ”を引き受けるということだ。複雑はめんどくさい。でも、めんどくさいのがあたりまえ、わかりやすすぎるのはうさんくさい。

敢えて付け加えるなら、「排除している」事実も目をそらさず引き受けるのが、本当の誠実だと思う。


長くなった。narkoさんご指摘の、岡田さんのことは次回に。
http://d.hatena.ne.jp/narko/20040803


この項
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040806
に続く。