『音楽誌が書かないJポップ批評35 尾崎豊 FOREVER YOUNG』に、

尾崎豊紡木たくの時代
尾崎豊はなぜ「恥ずかしい」のか
「オザキ節」キーワード辞典
落合昇平インタビュー
藤沢映子インタビュー
小川清史インタビュー
アルバムレビュー
「17歳の地図」
「回帰線」
壊れた扉から
「LAST TEENAGE APPEARANCE」
「街路樹」
「誕生」
放熱への証


と、大量執筆しております。


執筆者の一人としては不本意なんだけれど、正直、僕が最初に危惧していた展開は免れなかったと思います。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040312
尾崎は単なるダシの、サブカル論壇の方だけを向いた80年代論的なものが前半に並び、後半は、文学、社会学などの図式にあてはめてみました式の尾崎論が並ぶ。
その中で、僕に振られた役割は、尾崎ファン向けのアリバイというか、「重し」というところでしょうか。
「評論好き」と「尾崎ファン」を綺麗に分けて、前者の受けを狙いつつ後者に買わせるという、商売上の狙いとテクニックは上々の出来で、これはもう目指しているところが違うのだから仕方が無いのいだけれど、やはり僕は、はじめから本気で相互を浸透させたりかみあわせたりするつもりのない、ケンカでも何でもいいから、コミュニケーションの突破口になる意思を持たない、ただ頷きあいと「言いっぱなし」の雑誌というのはつまらないし、自分を棚に上げて敢て言えば、今号の出来あがりは残念だと思う。
(それでも、宝泉薫氏などは、両者の中間で、「大人の」良い仕事をされていたと思うし、南田勝也さんや安田昌弘さんの文章にも、教えられるところが少なからずあった)


けれど、この惨状を招いたのは、尾崎のファン自身の責任も大きいと僕は思う。
彼や、それを支持した自分たちの気持ちや在り方を誠実に引き受けて点検し、その先に行くための検証作業や試行錯誤を、自分たちの言葉で出来なかったんだから。
そして、それを外界に投げかける為の努力も。


古い倫理は、日常的な背景を失って、新しい現実を生きる者を支えるどころか、いたずらにその不安定さを裁く無自覚な建前になり、かといってまだ個性はみんなで唱えるお題目で、消費社会はいたずらに「こぼれ落ちる」不安を煽って膨らむだけだった80年代。
そんな、「いま ここ」以外を想像するための足場を失っていた、ぺらぺらで、のっぺらぼうな現実の只中にあって、「今と違う正しさ」を目指そうとした尾崎が、足場を見失って迷走していったように、渦中にあっては誰もが、自分のいる場所を相対的に認識することなどできなかったし、重く微妙な記憶であるからこそ、取り出して冷静に振り返ることが難しいのもよくわかる。
隙を見せて、後出しジャンケン的にレッテル貼りされ、図式的に裁断されることを恐れる気持もわかる。
尾崎に共感し、慰められたからといって、誰もがなし崩しの適応へと逃げず、「それ以外」の可能性を模索する義理はないということも。
それでもやはり、彼の歌に共感したことと、自分の適応しようとする現実の間にある軋みに、誠実にこだわり引き受ける人が、尾崎ファンや関係者にほとんどまったく見られないことを、僕は本当に残念でならない。
トリビュートだの何だの言ったところで、自分の都合を相手に投影して手前勝手に頷きあっているだけじゃ、腐った赤ん坊同士が足引っ張り合ってるだけだよ。


今回の原稿、特に「尾崎豊はなぜ「恥ずかしい」のか」は、僕の担当したインタビュー含めた他の原稿全体でバランス取るつもりで、結構ギリギリの内容をねばりにねばって書いたんだけど、それが災いして、字数とスケジュールの問題で、ぶつ切り状態でキツキツに詰め込んだ、かなり半端で不本意な掲載状況になってしまった。
アルバムレビュー等と抱き合わせて、「線引き屋」ホームページに近日完全版を掲載するつもりなので、興味ある方は是非こちらのバージョンを読んでみてください。


それから、立ち読みの際は、まずはじめに「尾崎豊紡木たくの時代」に目を通してから、他の本文に当たられることを、僭越ながらおすすめしたい。香山リカみたいな書き手は、このムックの中にだっているよ。
そして関係者インタビュー、中でもレッドウォーリアーズ、キヨシ氏のインタビューは、本日の表題に挙げた衝撃の事実!(笑)を含む、イイ話が目白押し。
是非ご一読を。


追記。
「尾崎はなぜ「恥ずかしい」のか」
アップしました。
https://bakuhatugoro.hatenadiary.org/entry/2022/12/11/005351