80年代末、本当の意味でバンドブームの「ダサイ等身大」を色あせさせてしまったのは、

商業主義よりも、渋谷系の豊かな洗練とスタイルだった。


自分にとっての憧れやリアリティが目の前の現実とずれてしまった時、それでも自分の納得を誤魔化さず貫き、模索し続けようとする信仰の名前が、我々にとっての、そしてアイデン&ティティで描かれる「ロック」だと思う。
けれど、渋谷系のカッコよさに距離を取り、自分たちの現実に穏当に向き合うための根拠を、当時の我々は持っていなかった。


そしてその後、我々はみなそこそこに豊かになって洗練され、また「情けない等身大の自分」も決して少数派ではなくなり、過度に恥じたりすること無く肯定できるようになった。
ロックはアンチの音楽ではなくなり、それぞれの個性を穏当に主張し、自由に表現を遊ぶフラットな音楽になっていった。


では、もう信仰としてのロックは消えてしまったのか?
前回の日記http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040119で取り上げた四方田犬彦の言葉を引くまでもなく、決してそんなことはないはずだ。
アイデン&ティティで、原作でも映画でも、俺がいちばん引っかかったのは中島の彼女の描かれ方だった。
実際、そういう声も多いようで、みうらじゅんはパンフレットで

インタビューを受けるとときどき「あの『彼女』は男の理想ですよね」って言う人がいるんだ。そこではあえて答えなかったけど、実際ああいう女の人はいるんだよ。
(中略)「彼女」はたぶん、みんな身近にいる。理想ではないんだ。それをキャッチできるか否かだと思うな。

と語っている。


確かに、彼女のキャラクターを描きこまず、憧れの象徴のように描くことが、ダメな自分への裏返しのナルシズムに拘泥してドロドロと収拾のつかなくなるようなノリを回避させているとは思う。
けれど同時に、彼女を「距離の取れない現実」として深く描きこまなかったことは、中島にとっての「現実」と自分探し在り方を、図式的に閉じた、安全なものにしてしまっているとも思う。


俺も、誰のものでもない自由な芸術家である彼女のような人がいないとは言わないし、そうした憧れを持ち続け、美しいものを肯定する強さは大切だと思うけれど、同時にそういう存在と中島の距離や断絶も描かれるべきだったと思う。
愛し憧れる彼女をこそ、中島のアイデンティティを引き裂く現実そのものとして描くべきだったと思う。
「売れない」ことよりも「才能が無い」ことの方が、ずっと本質的な挫折であり、悲しみであるように、それを受け止める過程、あるいは逆らいながら前へ進もうとあがく栄光と悲惨を描くことこそ、「中途半端さ」から逃げられない我々が引き受けるべきアイデンティティ証明じゃないだろうか。