生きている場所が違えば、「現実」も違う(歴史は単線じゃない)

今夜は、骸吉君や、以前彼が運営していた浅羽通明氏の支援サイト「見えない大学本舗電脳分校」周辺の人達との新年会だった。


そこで、骸吉君の日記での、呉智英氏やその読者についてのやりとりhttp://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20031220についての話に、少しなった。


彼等と話していても再確認したのだけれど、呉氏や浅羽氏の読者には、他の思想、サブカル周辺の書き手の読者に比べても、不器用で、真面目で、倫理的な人達が多いと思う。
大抵の人間というのは、もっとその場その場の快楽に忠実で、その時々の状況への適応さえ押さえておければ、自分の一貫性を突き詰めたり気にしたりはなかなかしないものだけれど、もともと線が細い彼等は、そうしたタフで、だからいいかげんでもありツラの皮の厚い、生でむき出しの人間やその社会というのに耐えられず、基準や一貫性、それによる確かな信頼感というのを強く欲してしまう。
ただ逆に言えば、根が善良な優等生であり、また生身の人間の自然状態の手におえなさに耐えられず、それを構造として抽象的に理解しようと読書したり考えたりしている時間の方が長いので、構造の認識をそのまま現実と錯覚したり、そこから導いた倫理をそのまま現実に当て嵌めようと急ぐ傾向が、どうしてもあるように思う。
そして、書かれたことに結論を求め、それに忠実であろうとする生真面目さのあまり、自他が生きている間に実感的に生じるぶれや違和感にこだわれず、それを相対化するような別の視点を持つことが難しくなっていることも多く、結果、個々人としては善良で愛すべき彼等が、集団になると強迫的、暴力的に感じられる場合がまま見られるのだ。
(このあたり、彼等の多くが学歴とか教養とか、目に見える権威や計量できる力やディティール検証に過剰にこだわっていたり、例えば女子なんていう頭で理解しようとしたところで手におえなく抑えもきかないナマモノと、恋愛という場で対峙したときなどに、そんな相手に惹かれてしまう事実と、自分の中の構造を守りたいという気持ちに折り合いがつかず拗れていたりしがちなところなどに、端的に表れていると思う。とはいっても、現実の処世をそれはそれとして切り離し、ダブルバインドで使い分けられてしまうような連中よりも、むしろ好感の持てるところではあるんだが...そして僕は、彼等のそうしたパーソナリティそのものを批判したり、もっと擦れて欲しいと思ったりしているわけじゃまったくないのだ。むしろ、根が直線的で真面目なのに、というかそのまじめさゆえに、現実全部を押さえ、了解しておかねばと先走る結果、生真面目な資質に本来受け入れがたいことに消化不良を起こし、本当は恥でもないことを過剰に恥じた結果のような、偽悪的な韜晦に陥ったりしがちであることを、正直苦しい気持ちで眺めてしまうことが多い)


例えば戦後民主主義といった、ある時代、ある状況の渦中にいる人が無自覚に盲信してしまっている通念やイデオロギーを、豊かな教養による超時代的な視野で相対化するような仕事はとてもシャープだし、評価されてしかるべきことだと僕も思っている。
ただ、それは彼等が個々の現実そのもの、人間そのものをよくわかっているということとは限らない。
むしろ、ひとつのことを気にし過ぎて、他のことにまったく目がいかなくなってしまったり、どんなことでも認識したり、語っていることにおいて、それはそのままの現実ではない、ということを忘れてしまったりしがちであるように思う。


だから僕は思春期のある時期以降、彼等の著作を物事の整理や分析の手がかりとして読むことはあっても、自分が現実を生きていくことを受け入れたり納得したりするための人間観を得る手がかりとしてはまったく読めなくなってしまった。
なんというか、「全部をわかることはできない」ことへの諦めが、前提になっていない倫理や認識の求め方が窮屈で、かえって生きることの邪魔になってしまうのだ。


これは僕が学生時代から、彼等にとっての「普通の人達」からは浮いていても、それとは別の「おたくサークル」的な場所に属したり、そこでアイデンティティ形成をしたことがなく、また学校的な社会や価値観から比較的早いうちにドロップアウトしたという、リアリティを積み重ねた場所の違いが大きく作用しているとも思う。
そして、必ずしもいわゆる「インテリ」ではなくても、こうして独自のアイデンティティ作りに逡巡したり、考えたりしている人間、そのための手がかりを欲しがっている人間はいくらでもいることを、彼等には知ってもらいたいと思った。


これとちょっと似た感想を、先日のバンドブームについての文章の反響を辿っていて出会った文章のいくつかを読んでいても感じている。
例えばこちら。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20040125
「乱暴な見立てであることは承知で」とはことわられているのだけれども、こうした整理が、どういう場所の、どういう人間にとってのリアリティであるかということをスルーしたまま、それを普遍としてまとめ、押しきろうとするように語られることは、僕には窮屈なのだ。単線として語られていく歴史の中に、自分の生きた現実があると思えなくなるから。
(例えば、後の語られ方の大きさを見ると錯覚しがちだと思うけれど、「ネオGSブーム」はバンドブームとそのまま並べられるような広がりを持ったものじゃなくて、本当に東京のセンスエリート層の間でのローカルなブームだった)
こうしたことは、結論を急ぐことよりも、まずそれぞれの場所から、それぞれの現実とディティールの語りがじっくりと積み重ねられることの方がずっと大切だと思う。


補記
と、批判めいたことを書いてしまったのだけれど、その後、ご自身の体験を通して、80年代中盤から後半にかけての、郊外の若者の等身大の文化としてのバンドについて語られたり(意味付け方には、やはりやや性急で意図的なものが感じられたけれど)、ポップミュージック体験を、状況や性質に大きく左右される固有のものだから、一元的な意味や価値だけで測られるべきではなく、たとえばロッキング オンの投稿のような、主観的、感情的な受け取り方や感想も、一概に否定されるべきではない、あるいは、音楽体験がまずそういうものであるという面を迂回するべきじゃない、といった、慎重でフェアな姿勢が示されていて、ちょっと軽はずみな判断でもの言っちゃってたかな、と反省したり、いろいろ考えなおすきっかけもいただいた。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20040128


「ジャッジする側」に居るための派閥作りのようなことに汲汲とすることなく、そうしたある層の中で通りのいい文脈や、自分の中にあらかじめある結論との間に齟齬を起こすような、実感的リアリティを大切に暖め、検証するような姿勢を、勇気をもって維持していって欲しいな、と思う。僭越ながら...