最後に気になった点。

しかしながら、こうした四方田氏にして尚、「思想」や「文学」が絶対的なものとしての意味と威厳を残していて、それに携わる者が「選ばれた者」「前衛」としての矜持を持っていた時代とその終わりを体感した自身の体験を「絶対視」しすぎているように俺には感じられる。そういったものが届かない、何の意味も持たない層のリアリティ、自身の体験の外にある世界の広がりに対しての敬虔さや無力感がないと、いくら「ノスタルジーでなく緊張感を持って書いた」と強弁したところで、広義の意味でのノスタルジーを出ないことには変わりない。それは、彼らの作品にどこか通底する(そして、そこを決して踏み外しきることは無い)上品で甘い空気に象徴され、愛読者たちにも無意識に共有されつつ伝わっているところだろう。
これは、この対談の言及されていた高橋源一郎についても同様に感じるところ。彼が政治に深くコミットしすぎた結果、パロディやアイロニーしか語れなくなったり、それさえ擦り切れ無効化した現在、ベタで安全な文人趣味へと退行していることなど、あえて言えば、こちらにとってはどうでもいいことなのだ。彼を縛っているのは(彼自身の意識はともかく)政治的な挫折体験そのもの以前に、そうした枠組みの外にある現実の広がりに対して、(挫折にこだわっていることが逆に隠れ蓑となり)本当に剥き身で向き合わずに済ませてきたところにあると思う。それを、文化的箱庭の枠内で、ちょっとだけずらしつつ(自身の中で)ズルズルとアリバイ工作し続けているだけ、というのが、厳しく言えばこれまでの彼の道程なのではないか(そういう意味では、自覚や恥の意識はあるんだろうけれど、どこかまんざらでもなく安心しちゃってるんだろうなって気配がどうしても匂う)。


つまり彼らは、彼ら自身が意識する基準ではともかく、それをはじめから考慮などしない世界に対して、格好の着きようの無いような本当の「負け」や「挫折」を体験していないのだと思う。
むろん、それが彼にとって重要なことになるかどうかといった個人の体感は、なかなか意思的にどうこうすることは難しい性質のものだけれど(が、まさにそれが、「すべてが恣意的に選べるものでしかない」という、自分より大きな「本当のこと」の失われた状態そのものなのだ)、ひとつの限界であることだけは間違いないと思う。
(しかし、同時にだからこそ、こうしたフラットで具体的な回想を記すこともできたわけだが)


「僕自身は本当のことはある、という立場ですけどね。」と軽々と口にする坪内氏など、下の世代を引き合いに出して「本当のこと」への緊張感の風化を他人顔で嘆くポーズをとったりする前に、こうした自身の限界への謙虚さが(一見すべてに距離が取れて、フラットであるかに見せるのが巧みな人であるだけに、)何よりもまず必要な人だろう。世界の天井を自分の都合で低く設定し、都合の悪い声を「すでに了解済み」として処理することで密かにパージしてしまうような振る舞いは、厳に謹んでいただきたいと思う。