「本当のこと」が無くなったということは、つまり神であれ思想であれ「自分」より大きなものを信じ、畏れる気持ちが無くなった、ということだろう。

人間、誰しもある年になれば、どうしても守らなければならない秘密というのはあるわけで、「本当のことはもうない」という言い方自体が、僕は文学的なレトリックだと思います。

日本のフラットな中産階級の中では一時的に見えなくなったと言えるかもしれませんが、ちょっとそこを外れたところで、そういう物語を生きざるを得ない人が<他者>として存在していることは、想像する必要があるんじゃないでしょうか。

といった、四方田発言には深く同意。
自分にとってのリアリティばかりを言い立て、また、その通りのよさに胡坐をかいてそれが普遍であるかのように押し通そうとするような論の多さには、本当にウンザリする。
スガ秀美の「68年論」に対して、何とか崩れたものの可能性を再構成しようと、人脈にこだわり、目に見えるものから記録していく在り方を「敗残兵からしか生まれない発想」「記録作者としては面白い」と評価しつつ、自身は「スガの説く無責任なニヒリズムに組する気持ちは毛頭ありません」ときっぱり態度表明するフェアなバランス感覚はさすがだと思ったし、渡辺直巳の「68年文学論」に対する「「68年」という名前で(隠喩の否定という意味のもとに)5人の文学者を括るときに、もう68年が隠喩になってしまっている」というツッコミもシャープで明快。
「僕の世代から坪内さんの世代で、ポルノグラフィを書く優れた人っていますか。ポルノグラフィというのは、人生における理想主義の挫折と絶望がないと書けない。」という発言からは、神代辰巳を思い出したし、現在執筆中だという、松田優作中上健次らを「カムアウトの文学」として括った文学論も、彼らの重い粘っこさのリアリティに惹かれる俺としては大変楽しみだ。