新潮2月号 四方田犬彦、坪内祐三の対談『1968と1972』を読む

90年代前半、四方田氏の「SPA!」の連載や「ガロ」の日記を愛読していて、知的好奇心の窓口としてかなり影響を受けていたが、今回も好奇心を刺激される雑誌的煽りセンス満載の内容。
68年当時、現代詩が若者にとって最も切実な文学だったことは、我々世代の多くにとって思春期の頃、ロックが最も身近で切実な表現だったことと同じだな、と思ったり、芝山幹郎帷子耀といった伝説的な早熟の天才のエピソードにミーハー心が刺激されたり(特に、「勉強してまで詩を書きたいとは思わない」ときっぱり筆を絶ち、山梨のパチンコチェーンのやり手オーナーとなった帷子耀の男前なエピソードにはシビレタ!)、他にも若く熱いアングラ芸術がカオスのように噴出し、渦巻いていた当時の新宿についての、直撃世代ならではの具体的ディティール満載の回想とか、単純にそそられる話題満載だったのだけれど、何にも増して興味深かったのは、68年以降「本当のこと」は本当になくなってしまったのか?という議論。前半の三島由紀夫の話も含め、この問いかけが対談全体を貫くテーマになっていたとも思う。