アイデン&ティティ(田口トモロヲ監督)を観た。

共同体への適応や成り上がりにきっぱりとまい進するだけのハングリーさもなく、あらゆることに穏当な距離を取れるだけの豊かさによる余裕も無い。ロックを音楽としてだけでなく、アイデンティティの別名として目指した世代としては、他人事として距離を取れない映画だったし、作り手たち自身がそうなんだろうな、という空気もストレートに伝わってきた。
トモロヲの、初監督作らしい、不器用だけれど直球でけれんのない堅実な演出にも好感が持てた。
サブカルノリにも80年代回顧にも閉じない、普遍的な青春映画になっていると思う。


その上で、やはりどうしても残る違和感について、一言書いておきたい。
それは、みうらじゅんの原作の発表当時、過剰評価する周囲の中でどうしてもはまりきれなかった時からずっと、一貫したものでもある。
ブルーハーツに代表される当時のロックの、「敢てダサイ自分を引き受けることが正直でカッコイイ」という姿勢は、反面「自分はこのままでいい」という安易な自己撞着と表裏一体でもある。俺は彼等の、現在の自分に対する苛立ちや恥を、別のところに転化してしまうようなところが嫌でたまらなかった(ちなみに、今俺がクドカンの仕事振りが嫌いなのも、こうした対象を自分たちにとって扱いやすい程度の大きさに縮小し、器用に処理してしまうような、客との馴れ合い方に対してだ。馴れ合いによる早上がりで、実は問題の当事者を裏切ってるヤツに感じるこの反発、例えば昔山田詠美の『ぼくは勉強ができない』に持った感情にも通じる)。今の自分が持っていない、本当のかっこよさや、それへの憧れに打ちのめされながら抱え続けるようなところのない、実は「まんざらでもない感じ」に強い反発を感じた。被害者意識を隠れ蓑に、現在の自分を肯定し、それがそのまま受け容れられるべきとでも言いたげなずうずうしさが匂って、鼻についてしかたがなかった。
(だから俺は、当時のバンドで言えば、ブルーハーツよりもレッドウォーリアーズにずっと、純で不器用な少年性を感じて好きだったし、ロックだと思った。今もそれは変わらない。「等身大」か「憧れ」かという立場やスタンス自体に優劣があるわけじゃない。それがどんな立場であれ、通りのいいことを振りかざして依存し、都合の悪い、あるいは通りの悪い別の側面を、安易に否定したり、無いことにしたりするような態度が問題なのだ)


アイデン&ティティには、そういうズルさやずうずうしさ自体はほとんど感じない。
けれど、主人公が本当の自分らしさを目指すときの障害となるのが、もっぱら業界ノリや安易な商業主義であることなど、やはり何かを誤魔化しているとも思う。

80年代末、本当の意味でバンドブームの「ダサイ等身大」を色あせさせてしまったのは、

商業主義よりも、渋谷系の豊かな洗練とスタイルだった。


自分にとっての憧れやリアリティが目の前の現実とずれてしまった時、それでも自分の納得を誤魔化さず貫き、模索し続けようとする信仰の名前が、我々にとっての、そしてアイデン&ティティで描かれる「ロック」だと思う。
けれど、渋谷系のカッコよさに距離を取り、自分たちの現実に穏当に向き合うための根拠を、当時の我々は持っていなかった。


そしてその後、我々はみなそこそこに豊かになって洗練され、また「情けない等身大の自分」も決して少数派ではなくなり、過度に恥じたりすること無く肯定できるようになった。
ロックはアンチの音楽ではなくなり、それぞれの個性を穏当に主張し、自由に表現を遊ぶフラットな音楽になっていった。


では、もう信仰としてのロックは消えてしまったのか?
前回の日記http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040119で取り上げた四方田犬彦の言葉を引くまでもなく、決してそんなことはないはずだ。
アイデン&ティティで、原作でも映画でも、俺がいちばん引っかかったのは中島の彼女の描かれ方だった。
実際、そういう声も多いようで、みうらじゅんはパンフレットで

インタビューを受けるとときどき「あの『彼女』は男の理想ですよね」って言う人がいるんだ。そこではあえて答えなかったけど、実際ああいう女の人はいるんだよ。
(中略)「彼女」はたぶん、みんな身近にいる。理想ではないんだ。それをキャッチできるか否かだと思うな。

と語っている。


確かに、彼女のキャラクターを描きこまず、憧れの象徴のように描くことが、ダメな自分への裏返しのナルシズムに拘泥してドロドロと収拾のつかなくなるようなノリを回避させているとは思う。
けれど同時に、彼女を「距離の取れない現実」として深く描きこまなかったことは、中島にとっての「現実」と自分探し在り方を、図式的に閉じた、安全なものにしてしまっているとも思う。


俺も、誰のものでもない自由な芸術家である彼女のような人がいないとは言わないし、そうした憧れを持ち続け、美しいものを肯定する強さは大切だと思うけれど、同時にそういう存在と中島の距離や断絶も描かれるべきだったと思う。
愛し憧れる彼女をこそ、中島のアイデンティティを引き裂く現実そのものとして描くべきだったと思う。
「売れない」ことよりも「才能が無い」ことの方が、ずっと本質的な挫折であり、悲しみであるように、それを受け止める過程、あるいは逆らいながら前へ進もうとあがく栄光と悲惨を描くことこそ、「中途半端さ」から逃げられない我々が引き受けるべきアイデンティティ証明じゃないだろうか。