旅先にて覚え書き

同居人の実家詣を兼ね、北海道旅行中。
自由業は基本的に年中無休、オンとオフの区切りの付き難いのがストレスの種なのだが、旅に出ると半ば強制的に情報がカットされるのが助かる。ネットも最低限の連絡以外ほとんど開かなかったので、この日記もしばらく滞っていたという次第。

新潮2月号 四方田犬彦、坪内祐三の対談『1968と1972』を読む

90年代前半、四方田氏の「SPA!」の連載や「ガロ」の日記を愛読していて、知的好奇心の窓口としてかなり影響を受けていたが、今回も好奇心を刺激される雑誌的煽りセンス満載の内容。
68年当時、現代詩が若者にとって最も切実な文学だったことは、我々世代の多くにとって思春期の頃、ロックが最も身近で切実な表現だったことと同じだな、と思ったり、芝山幹郎帷子耀といった伝説的な早熟の天才のエピソードにミーハー心が刺激されたり(特に、「勉強してまで詩を書きたいとは思わない」ときっぱり筆を絶ち、山梨のパチンコチェーンのやり手オーナーとなった帷子耀の男前なエピソードにはシビレタ!)、他にも若く熱いアングラ芸術がカオスのように噴出し、渦巻いていた当時の新宿についての、直撃世代ならではの具体的ディティール満載の回想とか、単純にそそられる話題満載だったのだけれど、何にも増して興味深かったのは、68年以降「本当のこと」は本当になくなってしまったのか?という議論。前半の三島由紀夫の話も含め、この問いかけが対談全体を貫くテーマになっていたとも思う。

「本当のこと」が無くなったということは、つまり神であれ思想であれ「自分」より大きなものを信じ、畏れる気持ちが無くなった、ということだろう。

人間、誰しもある年になれば、どうしても守らなければならない秘密というのはあるわけで、「本当のことはもうない」という言い方自体が、僕は文学的なレトリックだと思います。

日本のフラットな中産階級の中では一時的に見えなくなったと言えるかもしれませんが、ちょっとそこを外れたところで、そういう物語を生きざるを得ない人が<他者>として存在していることは、想像する必要があるんじゃないでしょうか。

といった、四方田発言には深く同意。
自分にとってのリアリティばかりを言い立て、また、その通りのよさに胡坐をかいてそれが普遍であるかのように押し通そうとするような論の多さには、本当にウンザリする。
スガ秀美の「68年論」に対して、何とか崩れたものの可能性を再構成しようと、人脈にこだわり、目に見えるものから記録していく在り方を「敗残兵からしか生まれない発想」「記録作者としては面白い」と評価しつつ、自身は「スガの説く無責任なニヒリズムに組する気持ちは毛頭ありません」ときっぱり態度表明するフェアなバランス感覚はさすがだと思ったし、渡辺直巳の「68年文学論」に対する「「68年」という名前で(隠喩の否定という意味のもとに)5人の文学者を括るときに、もう68年が隠喩になってしまっている」というツッコミもシャープで明快。
「僕の世代から坪内さんの世代で、ポルノグラフィを書く優れた人っていますか。ポルノグラフィというのは、人生における理想主義の挫折と絶望がないと書けない。」という発言からは、神代辰巳を思い出したし、現在執筆中だという、松田優作中上健次らを「カムアウトの文学」として括った文学論も、彼らの重い粘っこさのリアリティに惹かれる俺としては大変楽しみだ。

最後に気になった点。

しかしながら、こうした四方田氏にして尚、「思想」や「文学」が絶対的なものとしての意味と威厳を残していて、それに携わる者が「選ばれた者」「前衛」としての矜持を持っていた時代とその終わりを体感した自身の体験を「絶対視」しすぎているように俺には感じられる。そういったものが届かない、何の意味も持たない層のリアリティ、自身の体験の外にある世界の広がりに対しての敬虔さや無力感がないと、いくら「ノスタルジーでなく緊張感を持って書いた」と強弁したところで、広義の意味でのノスタルジーを出ないことには変わりない。それは、彼らの作品にどこか通底する(そして、そこを決して踏み外しきることは無い)上品で甘い空気に象徴され、愛読者たちにも無意識に共有されつつ伝わっているところだろう。
これは、この対談の言及されていた高橋源一郎についても同様に感じるところ。彼が政治に深くコミットしすぎた結果、パロディやアイロニーしか語れなくなったり、それさえ擦り切れ無効化した現在、ベタで安全な文人趣味へと退行していることなど、あえて言えば、こちらにとってはどうでもいいことなのだ。彼を縛っているのは(彼自身の意識はともかく)政治的な挫折体験そのもの以前に、そうした枠組みの外にある現実の広がりに対して、(挫折にこだわっていることが逆に隠れ蓑となり)本当に剥き身で向き合わずに済ませてきたところにあると思う。それを、文化的箱庭の枠内で、ちょっとだけずらしつつ(自身の中で)ズルズルとアリバイ工作し続けているだけ、というのが、厳しく言えばこれまでの彼の道程なのではないか(そういう意味では、自覚や恥の意識はあるんだろうけれど、どこかまんざらでもなく安心しちゃってるんだろうなって気配がどうしても匂う)。


つまり彼らは、彼ら自身が意識する基準ではともかく、それをはじめから考慮などしない世界に対して、格好の着きようの無いような本当の「負け」や「挫折」を体験していないのだと思う。
むろん、それが彼にとって重要なことになるかどうかといった個人の体感は、なかなか意思的にどうこうすることは難しい性質のものだけれど(が、まさにそれが、「すべてが恣意的に選べるものでしかない」という、自分より大きな「本当のこと」の失われた状態そのものなのだ)、ひとつの限界であることだけは間違いないと思う。
(しかし、同時にだからこそ、こうしたフラットで具体的な回想を記すこともできたわけだが)


「僕自身は本当のことはある、という立場ですけどね。」と軽々と口にする坪内氏など、下の世代を引き合いに出して「本当のこと」への緊張感の風化を他人顔で嘆くポーズをとったりする前に、こうした自身の限界への謙虚さが(一見すべてに距離が取れて、フラットであるかに見せるのが巧みな人であるだけに、)何よりもまず必要な人だろう。世界の天井を自分の都合で低く設定し、都合の悪い声を「すでに了解済み」として処理することで密かにパージしてしまうような振る舞いは、厳に謹んでいただきたいと思う。