小林まこと『関の弥太ッぺ』 佐藤忠男『長谷川伸論 義理人情とは何か』

恥ずかしながら、原作の長谷川伸の戯曲を読んだことがなかったのだが、かつての東映での山下耕作×中村錦之助による映画化作品に比べて、冗長な「泣き」の場面を整理して、爽やかな男らしさに的を絞った描き方で、行間を語り過ぎない、リズムとテンポが心地いい。
剣戟シーンも映像的で迫力があり、しっかりと現役のエンタテイメントしている( ちなみにこの作品、「柔道部物語」のキャラクターを使って、手塚的なスター方式で描かれていて、表紙はご丁寧にも、東映を捩った三角マークまで入った劇場ポスター仕立て。三四郎も番場の忠太郎役で特別出演してます)。
「情実と節度」の美しさに的を絞ったことで、まさに今この瞬間、僕たちが求めているものが何かを示し、娯楽の中で体感的に味あわせてくれる。


サマーウォーズ」も、ある意味「瞼の母」だったし、長谷川伸再発見のタイミングが来ている気がする。
何より、本作はもっともっと広く読まれてしかるべき作品だと思う。強くお奨めします。
青春少年マガジンhttp://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20090605もそうだったけど、小林まことさんは本当に懐の深い人だ。


余勢をかって、佐藤忠男長谷川伸論 義理人情とは何か』を読んだ。
書かれたのが70年代初頭ということもあり、反体制的な視点の有無への言及にバイアスがかかり気味だったり、筆者の推論で話を進めすぎているきらいもやや感じたけれど、単純な思想的色分けではなく、自分たちの美観や行動原理の底にあるものを、自力で見つめ、考えようとする姿勢には強く共感した。
特に、自身の運、不運の理由を問い詰めすぎず、個人的な意地の通し方を洗練させていく日本的な諦念と美観の長短を問い詰めていく「苦労人の立場」「義理と意地」といった章は興味深い論考。

「その否定されるべき思想に愛着を持つものは、その愛着を表現するにあたって、いちいち、これは卑しい好みでありますと、自らことわらなければならなくなる。堅気の職人の社会からは、一宿一飯という言葉も、その実態も消え、したがってその儀礼としての仁義(あるいは辞儀)も忘れられ、それらはすべて、あの卑しい博徒の世界の社会の固有の掟や風習であったのだということになる。そして、そういう愛着を残しつつ否定される掟や風習を一手に引き受けた結果、イメージとしての博徒たちの姿は、まことにパセティックな輝きを帯びることになる。」
「しかし、それを忘れることは近代化であるが、同時に、人々が自分は何者であったかということを忘れることであり、国家に集約された掟も、かつては小さな職能集団の中のものだったという自尊心を失うことでもある。」
(P46〜47)

こうした指摘が、先日たまたま同業の友人である松田尚之さんから紹介していただいて読んだ、8月24日の朝日新聞に載った「「非東京」の若者と選挙」という記事の印象と繋がって、更に長谷川伸再評価の思いを強くした。
最近、サブカル好きのライターや研究者の間で流行っている「ヤンキー文化論」的な、都市部の消費個人主義から距離のある、地元志向の地方の若者に対する考察なのだが、彼らがよく口にする「不景気で(あるいは消費に疲れて)、最近地元志向のユルい若者が増えた」という言い方には、「単に、バブリーなあなたたちの目に入ってなかっただけで、今も昔も田舎じゃそっちが当たり前なんだよ」という違和感が強い(たとえば、温室効果なんて何十年も前から喧伝されてるのに、今になってエコエコ空騒ぎしてることに似た嘘寒さを感じる)。
その中にあって、木村俊介さんの文章は、義理人情についての佐藤忠男の指摘と響きあい、異彩を放っていた。

若い世代は、そういう中で、「普通にやってたらつぶれる」という危機感を募らせる経営者と運命共同体的な関係にある。政治の被害をもっとも受けた人たちかもしれません。
ただ彼ら、あまりあらがうことはしないように見えます。内部で不満は口にするけれど、社会のシステムを受け入れ、自分に近しい人を守るために、何とかサバイバルしようとしている。
政治的な発言もしたがらない人が少なくない。意見は持っているが、あえて言いたくない、世の中を変革するために、時には現実の細部を省略して「こうだ」と言い切るようなことをしたくない、という感性。継続して追いかけている料理人の世界に顕著なのですが、裏の世界とのつながりとか悪の存在も全部自分の中にため込んで、「冷静な奴隷」の立場で、いわば末端から世の中を眺める目線(中略) そこには暗い話ばかりじゃなく、他の店との共生を模索するような試みに、ちゃんとお金が回っている。若い人たちも夢を捨てていませんよ。

主張や告発を潔しとせず、自分の姿勢や美意識にすべてを収斂させる日本人的義理人情のあり方というのは、一方では長いものはまかれて状況をあいまいに容認することの言い訳になってしまう部分もあるけれど、他者や社会と相容れないものを抱えつつ、自分なりの筋を通していく上で、安直に否定すべきでない最後の支えだとも僕は思う。


たとえば今回の民主党の大勝について、「前回の優勢選挙で構造改革を支持して自らの首を絞めた層が、経済二の次で福祉優先による負担増の自殺行為を選んだ」と、俯瞰的に冷笑するような論者をよく目にするけれど、そもそも何もかもがうまくいくなんてことはないわけで、すべての面で合理や利得だけを基準にした彼らの幸福感の方に、僕は問題があると思う。
人間、現実的な功利と、情の上での納得を折衷しながら生きているもので、世の中が右肩上がりの時はどうしても前者優先になりがちなものだけど、所謂「頭のいい人」ほど陳腐なものと切り捨ててきた後者を、冷静に再検討、再評価すべき時が来ている気がする。

劇画・長谷川 伸シリーズ 関の弥太ッぺ (イブニングKC)

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長谷川伸論―義理人情とはなにか (岩波現代文庫)

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