大日本人


さんざん悪評ばかり聞かされていたので、何となく今まで観そびれれていたんだけど、正直俺はかなり好感持ちました。
まっちゃんは、たとえそれがどんなにすすけたみすぼらしいものであっても、自分の馴染んだ現実が好きなんだな(というか、ただそれ「だけ」を愛している)ってことが伝わってきたから。


大佐藤の、若者風というにはどこか変で、かといってオヤジってわけでもない、中途半端に古臭い風体。
美化された過去の風景とか、日常にふと覗いた一瞬の輝きといったもの「だけ」を映し続ける昨今の邦画の多くと対称的な、くたびれた商店街と、無味乾燥な郊外があたりまえに同居している風景。
形骸化しておざなりに簡素化されている、大日本人巨大化のための神事。
職員達に「正義とは? 命とは?」なんて、答えに窮するような質問を平気でぶつける、心ないインタビュアー。
それに対して怒ることもできずに、「まあそれは人それぞれだから」なんて、無意識に自分達の仕事を否定するような答えをしてしまうおっさんたち。
嫁さんや娘と別居してたり、爺さんを老人ホームに預けてたり、でもその認知症の爺さんだけが心許せる唯一人の人間だったり。
それでも日々、みんなに迷惑がられたり軽んじられたりしながら、獣と戦い続ける大日本人
状況の支えを失って、何を言っても自己弁護っぽく所在無いし、熱く伝統について語ったりすると、正論言ってるはずなのにどこか取ってつけたように空々しくなってしまう。


ドキュメンタリータッチが冗長だし、フェイクとしてもおざなりでリアリティを持って機能してないという批判をよく見かけるけれど、どこか梯子を外され底が抜けてるような、淡々と索漠とした日常の緩さやヌルさや澱みは、しっかり表現できていたと思う(カッタルイって感想はよくわかるんだけど、そういうのってとにかく一回やってみないことには分らないんじゃないかって気もするし...)。
大日本人が戦う街が無人なことが象徴的なんだけれど、大日本人が存在するスクリーンの向こうの世界が、書き割りのネタであることを超えてもっともっと本気で描きこまれていたらな...という不満は確かに残った。が、これも、大佐藤=まっちゃんにとっての、現実の「遠さ」「希薄さ」だと考えると、それはそれで納得できる気もする。


ただ、ラストの「実写」だけは、どうにも笑えなかったな。
スカしたちゃぶ台返しが、「ナンチャッテ」な逃げ以上のものには見えなかった。
エンドテロップのアメリカンヒーローと食卓を囲んだ図なんかは、一見友好的なようで結局家族でも仲間でもなく、ふとしたことで揉め事の矛先が大日本人に向いてしまうところとか、意識的に皮肉ってたのかもしれないけれど、それならば英語と字幕で処理して寒々しさを強調するくらいのことをして欲しかった。宮迫の声で関西弁だと、ウチワネタ的な安心感、親近感が前に出てしまって、それまでの2時間分の寒々しさが誤魔化されてしまう。
結局すべてをニヤニヤとなし崩しにしてしまう、緩みきったグダグダ加減こそが日本であり、現在であり、我々自身だってのがまっちゃんの見解ならば、確かにそれはその通りだとも思うが、そこでまっちゃん自身、大佐藤自身はこの現実をどう思い、どうするのか、彼なりのケリの付け方をたとえボロを出してでも、俺は見せて欲しかった。
見つめ、切り取る人間が、一歩踏み込んでしまう瞬間を見てみたかった。