「誰でもピカソ」ちあきなおみ特集


ちあきについての説明や出演陣の語りは最小限に、とにかくNHKや民放各局から掻き集めた歌の映像を極力フルで見せてくれる構成が、良心的で素晴らしかった。
ただ、それならば、既にみんなのイメージの中にある初期の映像は、もっとさわり程度でいいんじゃないか。
特に、紅白の「夜へ急ぐ人」は、もう流さなくていいと思う。
この時期のちあきは、歌謡曲の定型を破って、当時のニューミュージックに接近したもっと生々しい歌を歌おうとしていて、それは確かに重要な課程だったと思うけれど、今知らされるべきちあきの魅力、キャリア全体から見た時のちあきの核心を伝える時に、これが強調されることははっきり邪魔だと思う。それは、彼女の中、後期のパフォーマンスを今回始めて見聞きしただろう、出演者達の反応を見ていても、間違いないと思った。
今、何かとこの曲をフィーチャーしたがるヤツというのは大抵、例えば文芸座あたりの邦画の特集上映にわざわざ「笑いに」つめかける、程度の低い映画ファンみたいなものだ。そういうさもしい馴れ合いはもういいよ。


ちあきの歌を語る時、よく「女の情念」といった言葉を使う人がいるけれど、自分にはこれが全然ピンと来ない。「情け」は凄く深い人だと思うし、感情移入力が彼女の歌の魅力の核心だと思うけれど、何と言うか、そうした自我とか自意識のうるささ、せせこましさがちあきの歌には全くない。
それは、中島みゆきあたりと比べるとはっきりわかる。中島みゆきの歌は、自分と離れた対象の「物語」を歌っていても、「それを歌っている私」という意識がまとわりついていて、その自意識がこちらの自然な感情移入の前に立ちふさがってしまう。それは、あの齢を追うごとに仰々しくリキみすぎな(過剰になるほど、ひとりよがりに閉じた印象を残す)歌唱法にも端的に現われている。ちあきの歌は逆にどんどん、例えば身辺雑記風のエッセイのように静かに始まりながら、いつのまにか物凄い本質に読み手を連れて行く良質な短編小説のようになっていく。静けさの中で微妙に触れる抑揚と、行間に対してどんどんデリケートになり、深まっていく。これは、歌の対象に対する理解と感情移入にすべてを集中する、ちあきの底抜けの「素直さ」から来ているものだと思う。だからちあきなおみという人は、あの、一見ぼーっと無表情なルックスに似合わず、実は凄く可愛い。
中島みゆきに限らず、ユーミンでも、更には椎名林檎でも、この部分が欠けた現在の歌手の歌というのは、ある意味決定的に「狭い」と感じる(勿論、彼女達の才気は自分も充分認めているつもりだけれど、才気自体が浮き上がる程に煩く感じてしまうのもまた正直な実感。そして、そうした狭さに触れるたびに、悪い意味で「女だなァ...」と思ってしまう)。固い自我でかためられ、構築された歌や、その世界観では絶対に表現できない部分が、確実に人間にはある。
不特定多数の大衆の共感を前提に、歌謡曲という縛りの多い世界でスタートし、そこからより自由でデリケートな歌を追求していった道程は、ちあきにとって平坦なものではなかっただろうけれど、そうした桎梏も含め、あの底抜けに素直でデリケートな資質を「自己表現」へと収斂してしまわなかったという意味では、やはり大きかったのだなと思う。


素直になることに対して照れたままで、同時に自分の中の「感情」の薄っぺらさを誤魔化すように、口の中に不自然に空気を溜めるようなフェイクな歌唱法に逃げる、UAエゴラッピン風の昭和歌謡カバーの空疎さに触れるたびに、一人でも多くの人に本物の歌に触れて欲しいと思う。現在を息苦しく、つまらなく閉塞させているものは、「フラット」な「個性」に固執する薄っぺらい自意識の捻れだとつくづく思う。