「県警対組織暴力」をもう一度


大西ユカリと新世界の新譜に「「県警対組織暴力」をもう一度」という一曲が収録されていることを、尊敬するシナリオライターの高田純さんが日記で紹介されているのを読んで知る。
ソウルムービーのタイトルを冠した曲をどうしても聴きたくなって、そのまま近所のディスクユニオンに走った。
彼女たちのアルバムを一枚通してガッチリ聴くのは、「Jポップ批評」に『六曲入り』のレビューを書いて以来だから随分久しぶりだけれど、シンプルなR&B調の曲でまとめられていて、「歌謡曲」と言うには正直ちょっと猥雑さが足りないなと感じた前回に比べると、この『おんなのうた』というアルバムは随分バラエティ豊かになった印象。1曲目の「ETC」から、ベタを恐れずギターが泣きまくる、70年代後半風の音数も派手なリズム歌謡調に掴まれる。
そして件の「「県警対組織暴力」をもう一度」は、スローテンポのブルース歌謡。「現代風に消化」とか、歌の核の情念の弱さを繕うようなしゃらくささなどまったくなく、正面から歌い上げる堂々たる歌唱。


しかし、それでも尚、自分の中には微妙な違和感が残っているのも事実なのだ。
この歌は一体、誰に向けて歌われているのかというところに、どうしても引っかかってしまう。
「浮き世の視線冷たく 理不尽さに打ちひしがれ 意味もわからず二人 アカよりましと励ましあった」人たちは、「真夜中お茶漬けを食べるたび 松方弘樹真似て ながしで茶碗を洗い」なんてことはしないだろう。これは、レンタルビデオで繰り返し観て、「性教育も楽じゃないのォ」なんてセリフごっこで遊んだりしている、サブカルヤングな我々世代の感性だ(この際、実年齢はあまり関係ない)。
つまりこれは、同じ趣味に入れ込んでいる同族によって、俺みたいな人種に向け歌われてるってことだ。


「やくざは嫌いだけれど、世間なりなんなりに裏切られて、裏道の方へ裏道の方へとはまり込んで、最後には犠牲になって死んで行くような、日陰の人間には共感できる」
東映プログラムピクチャーを長年にわたって支えた、『県警対組織暴力』の脚本家でもある笠原和夫は、こうした主旨の発言を繰り返し残している。


こうした感性を愛する、大西ユカリと新世界の趣味や入れ込みぶりに共感し、楽しく聴いている一方で、「県警」の、歌謡曲やプログラムピクチャー本来のお客さんに、この曲が向けられていないこと、届いていないだろうことに、どうしても引っかかる。
歌と(自分のような)観客との関係の狭さと安易さに、一抹の恥ずかしさと苛立ちを感じてしまう。


正直言ってこれまでも自分は、昨今の歌謡曲好き、歌謡曲マニアなミュージシャンによる昭和歌謡リバイバルには、もうひとつ乗れないできた。
映画におけるプログラムピクチャーにしてもそうだけれど、基本的に自分の意思は殆ど通らない「不自由な現実」を前提に生きている大衆に向けて、これまたそうした商売上の制約のカセにがっちり縛られたクロウト達が量産していく、という不自由なループの積み重ねの中でこそ生まれる、気安さと信頼感がその魅力の核だと思う。
個人の趣味や嗜好以前のものだからこそ、普遍性と広がりを持つのが歌謡曲であり、音楽ジャンルや形式であるのと同時に、その時代と聴き手の関係に密着する形でだけ、その瞬間に存在する歌であり、そこに生まれる空気そのものでもあると思う。
だから、その時代や大衆との関係から切り離された、形式や符丁だけを取り出して、好事家が好事家に向けて歌う「趣味の歌謡曲」というのは、存在の根本に矛盾がある。


ただ、『県警対組織暴力』の時代の大衆、そして彼らと歌の関係と、現在のそれは違う。


現在の、そうした層にとっての歌謡曲というのは、むしろピンサロやパチンコ屋の並ぶ歓楽街に流れるエイベックス系の曲だったりするんだとも思う(ただ、若者にとってはそうだとしても、音楽を意識的に選んで聴くような層じゃない、普通の受け身なおじさん、おばさん達が聴く曲、彼らに向けられた曲というのが、全く無いことに愕然とする)。
けれど、その関係の薄っぺらさや無味乾燥さを、自分はどうしても好きになれない。
自分が愛しているのは、やはりかつての大衆と歌との関係の有り様なのだ(それは目の前にない分、整理され美化されたイメージになっている部分もあると思うけれど、やはり確実にそれだけじゃない部分が存在する)。
自分の歌謡曲好きというのは、郊外化やジャスコブックオフに反発し、かつての地域共同体や商店街を愛する気持ちにそのまま通じている。
しかし、失われた過去に固執して、現に郊外化の中で生き続けている人達の現実を無視し、切って捨てるような姿勢にも、更に強い抵抗と反発を感じる(そういう意味で、現在ジャンルとしての歌謡曲が、他の音楽にも増して趣味的に自己完結しがちなことを、とても残念に思う)。
が、かといって、それをそのまま追認したくはない。


考えてみると、『県警対組織暴力』こそがまさに、滅び行くものの側から、清濁併せ呑んだ視点で現在を照射する映画だった。現在の昭和回顧ブームが意識、無意識にスルーしてしまっているような、暖かい一体感の裏地である、泥臭い村社会的な人間関係や気質を描き、それをどう切り捨て、またどう曖昧に自分の中に温存して現在に至っているのかまでを、観客の情念と一体化するドラマの中で抉っていくような映画。


現在の現実に苛立ちながら、それでもどこかで現在の大衆を信じ、愛して、彼らに向けて歌うことを諦めないこと。
そうした緊張感の中で歌われることでしか、現在の本当の歌謡曲はあり得ないと思う。
勿論大西ユカリにも(どこか、生活に根ざした安定感と風通しの良さを感じさせる彼女だからこそ)、この難題を飄々と引き受けてくれることを期待してやまない。


おんなのうた

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