『恋人たちは濡れた』


しかし、秀行さんにひきかえて(ひきかえるのもおこがましいが)俺の不甲斐なさといったら...


昨夜は「東京シンヂケート」熊ん子氏や文造さんらと、ボカン亭で傷天イベントの打ち合わせだったんだが、歯痛+熱+薬で意識モウロウ集中力なし。気合でテンション上げようとするも、思考が持続せず自分でも何しゃべってんだかわからないような散漫トークに...
ノンアルコールで緑茶すすってるサマに、日野さんから軽くツッコミ入るも、基礎体力不足いかんともしがたく、ガス欠気味のままイマイチダウナーな一夜。
たまたま隣で飲んでた円盤出入りの女子二人との神代トークがわずかな救いに。


帰宅後、疲労と熱で寝付かれず、『恋人たちは濡れた』をぼーっと眺める。
神代作品の中でも好きな一本だけど、こういう気分の時は尚更ハマる。
今日に限らず、神代辰巳の乾いたセンス、即物的でミもフタもない笑いというのは、意外に若い女性にファンが多く、その理由もなんとなく分かるんだけど、本当の本音を言うと、実はちょっと違和感もある。
あの乾いた軽さっていうのは、「どうしようもない」から「どうだっていい」と思うしかない、そんな自分は「どう思われても仕方がない」と、良くも悪くもキッパリふんぎったカタギとのオサラバの仕方を引き受けなければ生まれないもので、そこまで思い切るに至る彼の潔癖さと情念を前提にしないと本当にはわからないもの(つまり、はじめから「傍観者」に避難したヤツラが気取りたがる軽みや、無責任で冷たい笑いとは、全く真逆にあるもの)だし、そこをすっとばして感覚だけを拾い面白がることにはやはりある種の「不遜」がある。
もちろん、俺なんかよりずっと諦めてるし投げ出してる(だから、思いっきり開き直れもする)神代は、そんなことはどうだっていいと思ってるに違いないけれど、「意味が無い」ことを執拗に描くことで逆に「意味を見失っている」ことの苛立ちと切なさがストレートに浮かび上がるこの青春映画は、彼の原点という感じがしてやはりちょっと特別だ(だからこそ、その気分にモロにシンクロしてしまう今の状態ってのは、ちょっとヤバイなと思う...)。


過去を消して根無し草のようにフラフラとうろつき、もてあましてるオバちゃんに刹那のぬくもりを求めたり、青カン覗いてケンカになったカップルとそのままなんとなく仲良くなったり、うるさい女を強姦したら「こんなことで何かやったつもりなの?」としっぺ返し食ったり、やることないから延々つまらなそうに必死で馬跳びし続けたり...


三波春夫都はるみのマネして歌ったり、バスにみかんぶつけたり、無意味に自転車でグルグルしたり、さびれた海沿いの田舎町と、しらっ茶けた陽光の下、神代特有のアドリブっぽいナンセンスなシーンが何の説明もないままに続く。
そして、同じようにフラフラと漂ってる女に「本当は...」と語り始めた途端、主人公は過去から追ってきたとおぼしき男に殺され、映画は唐突に終わる。


最近は岡崎京子の『リバーズエッジ』あたりと並べて語られたりもするけれど、はっきり言って全然違う。
こっちはそうした「恥」や「苛立ち」よりも、実は端から変わる気なんてない「まんざらでもない」ヤツラが、しっかり「平坦な日常」をアリバイにした「切ない僕たち」の裏返しの自己主張はやってるアツカマシサばかりが匂ってくるから。
しかしこういう「人間メンドクサイけど自分は大事」なヤツらの荒みっていうのは、当分サブカルな界隈の基本トーンであり続けるんだろうな...


とにかく、本業にしろイベント等にしろ、スルーされがちなそこのところに一番こだわっていきたいんだけど、それを形にしていく方法を考えるのにはまだまだ時間がかかりそう。
特に、「みんなで騒ぐ」ことが主眼であるDJイベントなどに関しては、そもそも端からベクトルが逆ってこともあるんだけど、とりあえずしばらくは試行錯誤してみたい。