『働きマン』安野モヨコ


「恋愛」だの「ダイエット」だの、女子のミもフタもない欲望を、彼女達の井戸端会議そのままのノリで暴走しつつも自家中毒せず(いや、多少自家中毒ぎみにか 笑)、しかし客観的にもなりすぎず、迷走しまくる当事者による「ネタ」として語れるバランス感覚と目線の低さに、前提としての自分の現実に誤魔化さず向き合っている、昨今貴重な「まともな人」だと、ずっと思っていた。
だから、モーニングでのこの連載も、個人的にはそんなに唐突じゃなくて、すごく腑に落ちた。この人なら、こうやってキチンと手続きを踏みつつ、社会の広がりを意識していくだろうと思った。
自分が好きなことやって生きていきたいと思うことを引き受けると同時に、開き直らない。アートだの思想だので、自己正当化をはからない。だから、いろんな場所で生きているいろんな人たち、普通の人たちのことが気になる。
凄く、健康な心理だと思う。


忘れた頃に載ってる月1連載を飛び飛びで読んでる時には、実は彼女のいちばんの魅力である「余談」とか「横道」への暴走の部分が、ネタが身近でないせいもあってか少なくて、ちょっと優等生的に整理されちゃってるかなあという物足りなさも正直感じていたけれど、こうしてまとめて読むと本当に頑張って取材して、しっかり懐に入ってるなあってことにやはり感心する。ネタ元が社内(週現、フライデーあたり)ってのもあると思うけど、担当編集の方のサポートも、きっと素晴らしいんだろう。


ただ、こうした「まじめな良い人」っていうのは、他者に対して畏怖やコンプレックスも感じやすいから、相手を受け入れるために、ついつい「良く受け取ろう」としすぎるところがある。
例えば彼女は

礼儀とか
真面目にやることとか
常識とか
さまざまなこと


それの7割は無意味だ


いや訂正


意味などそもそも
なくてもいいのだ


と書く。
けれど本当は、
「意味などなくてもやっていける」「やっていけてしまう」
の方が正確だと思う。
人は大抵、まず「食っていく」「食わせていく」ってところに最大の意味を置いていて、やりがいだの意味だのはその次だから。
けれど、仕事っていうのは「自分で選べる」ものでもある。
芸能レポーターにしろカメラマンにしろ、「大衆の欲望が存在させている」とか以前に、彼らが好きでやってることだ。そこは「会社の都合」とか「みんなそうだ」で誤魔化していいことじゃないし、他人を傷つけて商売すれば、汚れ仕事として石を投げられるのも当然だ(自分を棚に上げた連中がムカつくこととはまた別に)。
そして、それでも尚、その仕事をやってしまう人の理由とか、ハズミとか、都合はいろいろあるはずだ。
そして、堂々と振りかざせないままなしくずしになってる、微妙な「個人的事情」にこそ、本当は生身の欲望やエゴが潜んでいる(だからこそ、人はそれを容易く口にしないし、自分の中でさえすり替えようとするものなのだが)。


人の欲望を肯定するスタンスと、それを正当化することとは違う。そこに無自覚だと、「現実に正当に光を当てる」という初心とは逆の結果を生むことになる。自分の思いたいように、心の痛まないように現実を認識したい誰かの都合との馴れ合いがそこには潜んでるし、それは別の誰かの都合や現実を、無意識を装って黙殺することでもある。


「エンタテイメントだから」という判断もあってのことだと思うけれど、それぞれのキャラクターを、みんな正当な理由を持った立派イイなヤツにしなくても、面白くって抜けのいいドラマはちゃんと作れると思う。
そういう意図を持って、登場人物たちに「仁義なき戦い」メンツの名前を振ってるんだろうと想像するし、是非、更に精進していただきたい。


働きマン(1) (モーニング KC)

働きマン(1) (モーニング KC)