id:qyl01021:20040921に触発されてリファ

bakuhatugoro2004-09-26


 …にしても自分の場合、いちばん中心的に聴いてきたのが遊佐未森とかZABADAK
だったので、最初の最初から超俗的にツクリこまれた郷愁やイノセンスの層(「青き清浄の地」?)ががっちり固められてしまったおかげで、渋谷系アーティストたちが現実の儚さと隣り合わせで人目を気にしながらこっそり願う程度の永遠化衝動にはそんなには揺れなくなったのかも。ついでにこのへんの聴き手は恋愛プレッシャーからの逃げ方も最大限であろう(笑)


これはオタクには卒業も成熟も無いって話に関係があるような気がするね(笑)
俺の場合、思春期の頃には「永遠化衝動」って感じでそれを持つことが恥ずかしいって意識が、まだ一般的だったように思う。「今の気持ちを絶対に忘れない、誤魔化さない」という意地と、しっかり卒業してちゃんと大人にならなきゃいけない、という気持ちにあせっていた、というのが正確なような気がします。
そういう意味で渋谷系以降の、「夏休み」への郷愁や憧れ自体をテーマにできちゃうようなメンタリティの登場には正直かなり戸惑った。
自分も決して強い人間じゃないから、大人になるなら、どこかでそういうものを一切捨てる踏ん切りをつけなきゃならないってプレッシャーを強く持ってからこそというのか。


オザケンについては、一般的な青春を斜に構えて冷笑しながら、冷笑せざるを得ないような自分のはかなさと密かなイノセンスを主張する、といった立場が層の厚みを持ち、文化的イニシアチブを獲得した時点で、もうそろそろ俺だって 明るい欲望全開の青春やっていい!(勿論、バカじゃない俺が意識的にやってるという留保付きで)っていう躁状態に突入、ってふうに見えてた。
これもいわゆる、「大きな幸せを前にすると人間は臆病になる。幸せをつかむことは不幸を耐えることより勇気がいるの」っていう、欲望、開放肯定の革命って意識が、当人やコアなファンにはあったんだろうけれども、人間の厄介さについてそんなに楽観もできなければ、それを全部よしとできるほどでかい器も持ち合わせない、むしろ「不幸に耐える力」の重要さをもっと早い段階で思い知らされてるビンボー人の当方としては、やはりそれは彼らにとってのバブル、吹き上がりってふうに見えてました。
しかも彼のファンっていうのは、エクスキューズが過剰なようで、実は根本的な挫折や反省っていうのに直にぶち当たり、受け止めることが少ないって人が多く、当時のオザケンやそれを支持した自分たちをまったく相対視することのないまま、それが消えてしまった社会を感傷したり、厭世したりってことに酔うことに立て篭もってる印象があって、それに対してもなんだかなあ...って正直思う。
「わがままな僕たち、私たちは儚い」ってノリに「はぁ?」っていう(笑) 


ただ、はじめて触れた開放への夢とか、興奮、渦中にある時はそれが色あせたり、終わったりするとは(世間の一般層はともあれ、自分のような種類の人間の中では)思いもしなかったものが、色あせ、過去になっていくこと、まったく同じ状況の中での同じ体験は起こりようもなく、再び味わいようもないことに対する感傷っていうのは、ここhttp://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040811でジャニスについて書いたように、俺にも強くあります(あと、今、ここ、自分っていうリアリティにこだわりった結果、自分を閉じ込めてしまい、外界の時間とずれた「点」のようになってしまうことの戸惑いとか、寂しさなんかも)。


こういう気持ちは、まだビデオが一般家庭に普及していなかった子供時代、夢中になっていたアニメやドラマが終わっちゃう時に、たびたび強く感じてましたね。
「愛し愛され〜」の元ネタの「999」の映画を観に行った時なんかも、ずっと楽しみに夏休みを待ちに待って、その期待以上に興奮している(あの透過光を多用した色調のクリアな明るさっていうのが当時のテレビアニメと一線を画していて、それに凄い豪華さと非日常感を感じてた)映画がもうすぐ終わってしまうってことに、ラストが近づくにつれ観てる最中から感傷的になったりしてた。
夏休みに、家族で街の映画館に出かけるという、世界との幸福な一体感やイベントとしての鮮烈さってことも含めて(高校の頃の文化祭なんかもそうだな...)、大人になってからはなかなかこういう、メリハリのはっきりした体験ができにくくなるほど、ますます感傷や憧れが募るってのあもりますね。


音楽に関しても、人生経験も、音楽体験の蓄積も少ない、感性まっさらな子供の頃っていうのは、(俺が当時から極端に不器用な子供だったってこともあったと思うけれど)きれいで感傷的な音楽に強く反応しすぎて、自分の中のバランスが取れなくなって気持ちの切り替えがきかず、「これじゃあ、今を生きていけないよ!」って大変な状態になっちゃってましたね。
角川映画のラストで流れるバラード調のテーマ曲、「人間の証明」とか「戦国自衛隊」とか「悪霊島」のレット イット ビーとか、映画の興奮もあいまって、感情の落とし所がなくってかなり困ってた。
中、高くらいになっても、尾崎のバラード曲とか、レベッカなんかのリリカルなメロの曲聴くとそんな感じになっちゃうので、好きでもあまり繰り返し聴いたりはできなくて、目的に向かって自分を鼓舞するような曲を繰り返し好んで聴くようになっていった。
感傷の甘い微熱にやられちゃうと、(すぐやられちゃうようなもろい人間だからこそ)今日を生きる力がなくなってしまう!っていう危機感から。
このあたりの体験が、結構自分の感性の基本的な癖をつくってる感じもあったりはしますね。


あと、一回性の体験云々とかを抜きで、純粋に音楽的な体験で言えば、ユーミンインパクトあった(ちなみに、当時も今もユーミン自体は全然好きじゃないのに)。
さよならジュピター」の主題歌だった「ボイジャー」とか、「ねらわれた学園」の「守ってあげたい」とか、歌詞の内容なんかまったく意識していないし、自分の体験的なことを重ねてるわけでもなんでもないのに、なんだかそういう日常性とか生活感を全部透過して、心のある部分を直に刺激する光線みたいな感じで響いてきて、当時なんとも不思議な感じだった。あのちょっとジャジーな、当時の邦楽にはめずらしいコード進行と、ユーミンの抑揚の無い平板な声の組み合わせが、そういう不安定な甘切なさと透明さを生んでたように思う。吉田美奈子の「扉の冬」なんかも曲自体は近い線だけど、声がもっと肉感的で実態感があるので、ユーミンほどではない。
大貫妙子になると、今度は初めから温度自体が無いので、現実からきっぱり切れていて切なさ自体が生じなかったり。
ユーミンの場合は、正に微熱なんですね。
彼女の曲が「時をかける少女」とか、原田知世のつたなく不安定な声で歌われたりした日には、無意識の性欲も刺激されて、架空の甘い切なさで自分の現実の足場が消失しちゃってもう苦しい!、って感じだった。
考えてみれば「時をかける少女」とか「セーラー服と機関銃」とか、角川ヒロインものの映画自体が、リアルタイムの思春期(を毎日必死に生き残ることで精一杯な中坊)に向かって、いいおっさんが事後の視点から一回性の切なさというものを叩きつけてるっていう、凶悪なものだったことも相まって(笑)


近年で、同じような感じが自分の中に起こったのが、椎名林檎の「ギブス」。これは、歌詞も好きで聴いていたけど、やはりそれ以前に曲自体にやられた。あれも、ボーカルスタイルや声質を除くと、曲自体の方向はユーミンにかなり近いと思う。
あの頃、90年代後半頃っていうのは、メロコアとかエモや音響系なんかも含めて、そういう一回性の切なさを刺激するような音楽が溢れまくっていて、結構俺のような感性の方向を持つ人間には楽しかったな、今にして思うと。
もっと若かったら、余裕こいて楽しいなんて言ってられなかっただろうけど(笑)