初夏あたりから、ブリジストンのCMで、ジャニス・ジョプリンのサマータイムが流れている。

bakuhatugoro2004-08-11



このCM自体は、車の映像にジャニスって取りあわせがどうもミスマッチというのか、ロック世代オヤジのためのナツメロの一曲として適当にあてがわれてるくらいの印象で、どうにも広告臭さの方が前に出ていてもうひとつピンと来ないけれど、周りの反響を見る限り、ジャニスの全体を知らずにCMだけ見ると、あのシブく硬質なしわがれ声と、静謐に張りつめたサイケなギターアルペジオが、ほの暗い画面を疾走する車のクールな映像に結構はまってるのかもしれない。


ともあれ、夏が来ると、ジャニスをはじめ60年代後半のサイケデリックなロックが聴きたくなる。
日差しは強く、雨風は激しく、緑は燃えて、空はむやみに青い。
生命が溢れかえっている、すべてが過剰でヴィヴィッドな季節。
世界に同調して、自分のすべてを開放し、燃焼させたくなるんだけど、
同時に力や回路を持たないゆえの煮詰まりや、熱狂の後の空虚も際立つ。
細胞が元気になりすぎて、死の匂いもヒリヒリと際立つような季節。


それでも僕は、この季節の鮮烈さが好きだし、どうしようもなく憧れている。
それは僕の中では、ロックが好きってことと完全にイコールだ。


そして、ビッグブラザーホールディングカンパニーの「チープスリル」こそは、夏の初めの興奮と、この世でもっとも鮮烈に一体化したアルバムだと、僕は信じて疑わない。
つまり、僕にとって「何がロックか?」というと、「要はコレ!」ってことになる。


ビッグブラザーは当時のヒッピーバンドにありがちな、誇大妄想のようにコンセプトばかり大げさなくせに、チューニングひとつ満足にできないような舐めたバンドだったし(が、意外にも、今も女性ボーカル入れて細々と活動続けてて、数年前に何度か来日したりもしてるんだよね...)、彼らに限らず、自由で家族的なようでいながら、無神経でだらしない、平気でエゴイスティックなヒッピーコミュニティーは、相当にジャニスを振り回し傷つけた(もちろん、マジメにDIYでストイックな、レナード・コーエンやリサ・ロウのようなヒッピー達は、ある意味尊敬に値するし学ぶべきところも多いと思うけれど)。


ジャニスの音楽背景を考えても、オデッタのフォークソングやベッシー・スミスのブルースの弾き語りからスタートし、オーティス・レディングのR&Bに熱狂した、彼女の熱さとナイーブな叙情性を表現するのに、主に感覚の拡張の方を向いているバンドのサイケデリック指向は、充分なものではなかった。
かといって、対外的には白人のヒッピーねえちゃんの代名詞であるジャニスが、そのままもろメンフィスソウルをやることにも、黒人音楽信仰の強かった当時だからこそ風当たりが強かった。ジャニスは、そうした自分の方向を理論武装するようなタイプじゃなかったし、「自分」と「音楽」がそのままイコールだった彼女はスターとバックバンド的な距離では自分の資質を十全に発揮できなかった。
だからこそ、遺作『パール』で聴ける、フォーキーな叙情性とソウルのはねるリズム、ハモンドオルガンやファズギターによるサイケでカラフルな味付けが融合し、まさに彼女の魂そのもの、ジャニス流のゴスペルといった感じの楽曲、そしてアドリブ的な彼女のテンションに柔軟に応え、包み、支え、鼓舞するフルティルト・ブギとのコンビネーションは感動的だ。


だから、『パール』は今も、というかおそらくこれからも変わることなく、僕のオールジャンル、オールタイムのベストワンアルバムだけれど、「ロック」という言葉から即座に連想される特別な何かが、『チープスリル』にはある。
いつ火がついて、どこに飛んでいくやら分からない、ジェームス・ガリーの爆音ギターをはじめ、ビッグブラザーの乱暴でいいかげんな自由さも含めて。


本当に月並みな比喩だけれど、それはおそらく恋愛がはらむ微熱の激しさと凄く似ている。
それも初恋。初めての、一回性の渦中の中で受ける衝撃。
無知、未経験ゆえに一般化できない、心身未分化な強烈な衝動。
理性で抑えられない生理が、全面的にに受け入れられる恍惚と、拒絶、否定される絶対的な孤独、不安。


孤独なものほど恋愛を強く必要とするけれど、それが成就するかはどうかはあくまで相手次第。
けれど、根っこにある理不尽や酷薄を、人はそれに熱狂し、求める故に否定できない。
だから、過剰に意味を求めようともする。


そこに、偽善が横行する(「弱者がヒップ」って建前のカウンターカルチャーこそ、実はそうした偽善の温床だ)。
そして、それをもっとも激しく、強く求める者が、「自業自得」の孤独を抱え込み、引き裂かれることになる。


ウッドストックのDVDを買ってきて、何年かぶりで観たりもした。
「人はすべてを自分で決めて選ぶことができて、何からも強制されてはいない
開放されるか否かということも自由...
すべては心の持ちよう
私達はもっとのんびりしてもいい」
そんな、東洋思想がアメリカ経由で性善説的な民主主義と粗雑に結びついて、一律に「開放感」と「楽しさ」が、良いこと、あるべきこととして奉じられてるノリ、そこに疑念や違和感を感じ、挟むことが暗に、しかしきっぱり禁じられている場の空気に、ちょっと胸苦しいような気持ちになる。


本当はカッコよくて正しい立場や、楽しいことが好きなだけなくせに、思想や状況の後ろ盾を得て調子に乗った、舐めた顔つきの若者だらけで、げんなりもする。


それは、あきらめや陰影を知らない社会に、本当の安心や包容力は育たないことを、僕に再確認させる。


ウッドストックでもミュージシャンたちは、音楽に足がついている分、観客達ほど浮ついた感じはしないけれど、その中にあっても、やはりジャニスの感情表現の豊かさは際立っている。
ジャニスにだけは、実は、周りとはっきりと温度差がある。
彼女は優しい。
「みんながもっと素直に、優しくあったっていい」
そんな願いや祈りが根底にはっきりとある。
テキサスという保守的な土地でリベラルな母親に育てられ、また容姿に恵まれない文系の少女として、フットボールとプロムパーティーのハイスクールからこぼれ落ち、そんな孤独もあいまってビートニクや黒人差別に思い入れると、町で笑いものになるだけでなく、母親の「リベラル」からもはみ出してしまい、それが真摯に、切実に求めるほど自分を傷つけるだけの、いい気なお題目でしかなかったことも知る。


甘い夢なんか見ていられないことがはっきりしている黒人ブルースマンのように、背景に共同体を持っていない分、ジャニスのブルースはナイーブで不安定だけれど、ヴィヴィットに全方位に対し、本気で伝えようとしているから、ポーズや言い訳に自家中毒してもいない。
そんなジャニスが、さまざまな人々と音楽がジャンルを超えて共存している場所、そこでたとえ一瞬のお題目としてでも共有された夢の中で居場所得ていること、まさしく「本物のロック」として機能していることを、僕は好きだし、否定できない。


彼女のイメージとして、二言目には「情念の女」といった言い方が(たいして彼女に興味も好意も持っていないロックファンにかぎって)されがちだけど、これにはかなり違和感がある(だから、伝記的映画として世評の高いベット・ミドラー主演のローズも、僕にはまったくピンと来ない)。
橋本治が『虹のオルゴール』の中で、マリリン・モンローについて「表紙がエロ本の若草物語」と書いていたけれど、これにかなり近い印象を僕はジャニスに持つ。
彼女のくしゃくしゃな笑顔は、いつもでっかい赤ん坊のように無邪気で可愛らしい。
カルメン・マキにしろ、金子マリにしろ、日本のフォロアーには、ジャニスの明るい繊細さが受け継がれていなくて、ジャニス的なもののイメージ伝導ってことに限っては、著しくマイナスにはたらいていると思う)
ジャニスは偽善を嫌って、いつでもどこでもあけすけな口をきいたし、記録映画『JANIS』の中では、「正直でありたい」「真摯でありたい」と繰り返し繰り返し話している。
けれどそこには、コンプレックスが発する恨みや、底意地悪いたくましさのようなものはない。
同時に、調子付いた他者への配慮のなさ、わがままさも実はほとんどない。
ただただ、「人は長いものにまかれることなく、かっこ悪いことも、もっと素直に直視して、お互いを出し合って、受け入れあえるんじゃないか。そして互いに、優しくあれるんじゃないか」といった、何かがはじまりそうな時代の中での期待と矜持が伝わってくる。
それは本当に曇りなくまぶしい、と同時に、その無防備でまっすぐな思いの行く末と甲斐のなさを知っているから、結果として彼女の孤独が際立ち、見ていて辛くなってくる。
セコくて暗いのは彼女じゃなく、人間どもの方なんだ、なんて青臭い言葉を、ここでだけは吐かせていただきたい。


自由や平等を前提として、疑うことを禁じる思想っていうのは、実は(自分が強者であることさえ引き受けない)強者の自由のみを甘やかし、生理的に押しのきくやつのわがままを容認、増長させる思想だ。
体力と余裕とそこから生まれる天然の無神経、揺ぎ無い自己肯定のずうずうしさがものを言う思想だ。
そして、力のない者を、開放されないのは自業自得というコンプレックスに追い込み、現実に傷つき、内に動機を持った開放されたいヤツ、まじめなヤツほど、のめりこんで傷つき、傷つけあうことになる。
「明るさ」の勢いの前で、「変われない」ことを主張することは、本当に難しい。
けれど、そういう自分の「偏り」を根にしなかったら、人は何を頼りに自己把握すればいいっていうんだ?
こうした「平板な平等思想」の欺瞞は、今や自己啓発セミナーやねずみ講キャッチセールスの常套手段となった。
(同時に、その後の現在に至るパンク的な、「捨て鉢ノーフューチャー気分」もまた、「プライドはある、でも助けて欲しい」という切実な人間の現実を切り捨てる一面的なものだと思う。そういう意味では、ヒッピー的な浅はかな理想の陰画であり、安易でいい気なシニシズムだ)


そんなヒッピー思想のノリは、今では「スローライフ」なんて言い方で、野暮な急進性を切り捨て、「フラット」を巧みに装いながら、現在にしっかり「イイ位置」を占めている。
ナチュラルに、自然に、楽しく」、心地よさだけを求める「エゴ」を全肯定して、異質な者との落差や断絶を嫌い、それを突きつけてくるものを「暴力」として排除する。
そんな傲慢な手前勝手を、遠まわしに「ラブ&ピース」のイメージとして振りかざす、こうした連中のインチキほど、いけ好かないものもない。


狭いのかもしれないけれど、俺はやっぱり、「イイ奴」がやってるロックが好きだよ。
カッコイイヤツがやってるロックも好きだ。
セコいのは嫌いだ。
だけど、無神経なのも嫌いだ。


この条件を満たしているロックって、実はほとんどないってのも本音だ。


ジャニスの純情と誠実が、傲慢な理想主義に脅かされ、煽られることなく、人の孤独と酷薄をも受け入れ、同時にその切り捨てない自由を持てていたら、と思う。
それをこそ、僕は指向しなければ、と思う。


この夏は、ジャニスを素材にした映画も公開されるし
http://www.gaga.ne.jp/janisjohn/
http://www.cdjournal.com/main/news/news.php?nno=7034
『PEARL』のリマスター再発もある。
http://www.cdjournal.com/main/news/news.php?nno=6902
来年の年明けには、デッドやザ・バンド、デラニー&ボニー、エリック・アンダーソンらと列車ごとカナダを縦断してのセッション三昧「フェスティバルエクスプレス」の記録映画も公開になる。
http://www.festivalexpress.com/
デヴィッド・ドルトンによるロングセラーのルポ本『ジャニス』に収録されていた、ボニーとの赤裸々な会話なんかも生で見られるのだろうか?


きっかけは何だってかまわない。
一面的で浅はかな世評や、ポップに媚びるオタク共に惑わされることなく、本当に必要としている人の元に、ジャニスの魂がまっすぐに届いて欲しい。




「ジョゼ」、また先延ばしになっちゃったけれど、このエントリーも内容的にしっかり関連してるから、これを踏まえて待ってて下さい。