「福田恒存文芸論集」(講談社文芸文庫)を読んで以来、

もの凄く文章が書きにくい状態になってしまった。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040512#p2
これに収録されているほとんどの文章は、10年くらい前に全集で読んだことのあるものなのだけれど、その時は、単純に自分が文意を普通に理解、消化できるレベルに達していなかったので、それを言い訳にずっと、彼は僕の中で宿題のように保留になっていた。
けれど本当は、彼の言っていることが正しすぎて、実際にそれを実践する根性も器量もなく、かといって読んで気にしてしまうと、それをある尺度とか度合いの問題として相対化するだけの余裕や蓄積のない自分は、身動きがとれなくなってしまいそうな気がして、半ば無意識に遠ざけていたようなところがある。
そして、福田恒存の示すような根本を保留にして遠ざかりながら、枝葉をゆっくり茂らせることによって、徐々に幅を身につけ、タブーをなくし、「大丈夫」になっていこうと考えていた。


それは、自分なりにある程度うまくいったと思うのだけれど、同時に、最終的に自分はどうしようもなく「本質」を考えたい人間なのだな、ということも身にしみている。感覚的にとっ散らかった状態でふわふわしていることが、そのままある安定感まで育つというようなタイプの人間ではないらしい。いつも、意味を気にし、意識しながら、それがうやむやに流れていくことをどこか後ろめたく思い、目の前のことだけに集中できない。
そこに固執し過ぎないためにも、何か大きな幹が必要なのだ。


久しぶりにがっちり読んだ福田恒存を、僕はある程度(ではあるが)普通に理解できるようになっていた。周囲への適応を気にしながら、どっちつかずに言い訳していた事ごとに対して、シャープで本質的で説得力のある答えが示されていた。異論はほとんど全くない(ただ、納得にいたるディティール、教養が甚だ不足しているので、理解の仕方が甚だ観念的になってしまっているようには思うし、当時彼のいた状況と現在までの変化についても、冷静に抑えてみたいとも思った)。
けれど、自分はあいかわらず、それをそのまま実践するには清潔でなく、半端にとっちらかり過ぎている。しかし、堂々とその現実に開き直れる程、あいかわらず自信も諦念も持っていない(性急に持とうとするのは、尚良くないと思う)。しかし、とりあえず自分の生き方を変えられない以上、目の前のことはこなさなければならない。
それで、仕事はとりあえず回しているのだけれど、こうした日記などは思い切り書きにくくなってしまい、いきおい滞りがちになってしまった。
まったく、生き難くて仕方がないが、でも、こうした自分の幹は是非とも必要だと思う。
根本的な姿勢、認識の幹としながら、そこからの自分の距離を測りつつ、付かず離れず、行きつ戻りつ試行錯誤していきたい。
今日はいつもに増して、なんとも抽象的でまとまりのない日記になってしまったが、変に急ぎ、あせっても仕方ないので、じっくりやっていこうと思う。


取りあえず、この本に関して繰り返し示されている、「神を持たない日本人の根本的な倫理のなさ」という問題については、また日を改めてじっくり書いてみたい。