SPA!6/4号の福田和也と坪内祐三の対談が酷い。

特に坪内祐三が本当に酷い。
というか、この対談での彼の調子こきぶりにはいつも目に余るものがあったが、むしろ言い捨て読み捨て的な場で気の緩んだ「悪人の自白」として重要かもしれないと思うようになった。


下の町山日記http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/でも取り上げられている現在のアメリカ人の荒み方が今回のお題で、その原因をアイデンティティを移住前の各民族の伝統に求めた前世代と違って、現代のアメリカ人の意識は生まれたときからアメリカ人、だから、歴史の積み重ねや深みのある文化を持っていなくて、結果ペラペラなサブカルナショナリストになってしまうと分析。
これ自体はそのとおりだと思うけれど、日本におけるそうしたサブカルナショナリストの代表を、例によって小林よしのりに押し付けて、馴れ合いくさい含み笑い。醜悪だ。
少しでも公平に小林よしのりに対していれば、彼の姿勢や言動の核には、厳格な祖父への反発を経由した影響が骨がらみになっていることはすぐにわかるはず。そうした「体質」こそ、「ナショナリズム」そのものではなかったか?
彼の情念的な性急さが坪内氏の肌に合わないことは想像に難くないけれども、普段、穏当で俯瞰的な余裕を演出しながら、直に自分に利害が及ぶ、論壇内的発言に垣間見えるこのセコさ。
何より問題なのは、「情報資本主義に首まで浸かった現在、自分もふくめてみんなサブカルである」という現実を引き受けて、自分の問題として考えるのでなく、我一人高みにおいて俯瞰のポーズで肝心の問題をそらす姿勢(しかも、責任は巧妙に論敵へなすりつける卑劣なやり口)。これ、最悪の意味でのサブカル相対主義者そのものじゃないのか?


虐待女性兵士がトレーラーハウス暮らしのプワホワイトだったことについて、

前線に行かされる米兵って、ある意味、イラク人よりももっと悲惨な生活や生い立ちを背負っていたりするんだ。でもそのことを細かく書けば書くほど、日本だったら「差別」とか「プライバシー侵害」ってことにされちゃう、おかしいよね。

と、せっかく重要な指摘をしているのに(実際この手のタブーは凄くて、僕自身の経験に照らしても、例えば尾崎豊について周囲の人々に取材したとき、インタビュー中は誰もが彼の混乱の原因を、青学付属に進学したことによる環境の齟齬だと言うのに、原稿化する時には「差別的だから」と、揃って削除されてしまった)自分がこんな、「中途半端な金持ちが、自分の不安定さをつくろうためにすぐ下の階級を叩きに走る」ようなことをやってちゃまるで台無し。説得力皆無だ。
サブカルに理解があるそぶりで、その実巧妙に権威的文学中心主義であるところも、高橋源一郎などに通じ、要注意だな...)


町山氏のような、構造への本気の怒りを欠いたまま、メタを気取って文化と教養の必要を説くばかりの彼に、彼自身が編集した福田恒存文芸論集から、以下の言葉を贈りたい。

ぼくたちの誠実とはなにか、良心とはなんであるか。いや、個性とはなんであるか。ぼくたちの個性とは−これに因数分解をほどこせば−たんに文明開化的な文化財と享楽財とに対する欲求度とそれをかちうる生活的実行力との相乗値にすぎぬのである。私小説家とは、後者に比して前者の大なるものであり、この簡単な事実を芸術の尊厳と芸術家の矜りとによって隠蔽している人間のことをいう。
私小説的現実について』より

ここで言われる私小説家とは、単に身辺雑記的小説家のことじゃなく、日本人の根本的な体質を指す。そして、当時の私小説家に限らず、自分はそうした日本人の資質を相対化している、というつもりで奢っている文化人ほど、自分のそうした資質に(半ば意図的に)無自覚だ。
僕は、坪内氏の文化的博覧強記ぶりや見識には学ぶところが多いと思っているが、そうした装いによって繕われている部分にこそ、この社会の根本的な問題が露呈していると思う。
彼の文学論や文化的雑文に惹かれている読者こそ、これを自覚するために「SPA!」の連載は注視した方がいいと思う。