ライター、編集者の中川大地さんの誘いで、

彼の参加する芸能山城組(「AKIRA」のサントラを担当してた人たちです)春祭りへ中野ZEROホールに。


公演は、ガムランの生演奏と踊り、そして、歌舞伎「鳴神」を山城組流にアレンジしたオリエンタルなミュージカルといった感じの演劇による二部構成。
ガムランの生ライブを見るのははじめてだったのだけれど、感情が揺さぶられたり何かの衝動が起こったり、という僕が普段聴いているような音楽じゃない、ある種の感覚をマッサージされているような音階のループを長時間がっちり聴いていると、場内アナウンスでも説明されていたけれど、本当に半覚醒でα波が出てるような状態になった。
平たく言えば、難しい本なんか読んでいて、いつのまにか意味を取らずに活字だけ目で追いながらあさってのことを考えちゃってる時とか、居眠り寸前にいろんなことをぼーっと妄想して頭が勝手に猛烈に働いている時のような状態。
これ、決して悪口で言ってるわけじゃないし、彼らもきっとそう取らないと思う。半ば無意識なんだけど、とても心地よく印象的であり、昔、今はなき六本木WAVEの地下にあったシネヴィヴァンで、セルゲイ・パラジャーノフというグルジアの映画監督の「アシク・ケリブ」「ざくろの色」なんて映画を観たときも、調度こんな感じで気持ちよく寝ちゃったなーなんてことを思い出した。


そうした半覚醒の状態で、普段の僕たちが慣れ親しんでいるものじゃない、独特の省略と誇張、強調を洗練させた結果であろう、人形のようにカクカクしたインド風のシメントリーな踊りを観ていると、世界の見方、捉え方やその表現には無数の角度があって、ある方向がついて積み重ねられることで共有され、洗練されていくうちに、それぞれの間に途方もない距離ができて不思議だなあ、そして自分は、流れに乗る前のところで躊躇して、何も形をなさないことがどうにも多い気がする...なんてことを漠然と考えて、妙に寄る辺ない気分になったりした。


「鳴神」の方は、僕らがイメージする演劇やミュージカルの動きからそんなに離れていなくて、物語を普通に楽しみながら、東洋音階の和声に心地よく酔った。
ただ、ラストの、学生、警官、サラリーマンなど「日常のコスプレ」をした人たちが舞台に乱入し、虚実が入り乱れ混沌とする、といったアングラ演劇(というか、天井桟敷)的演出や、中途半端にロックアレンジを取り入れようとしてるような部分は、そこだけが逆に古臭くて結果的に悪い意味で俗っぽくなってしまっており、ちょっと残念だった。
付け焼刃の作為より、積み重ねや奥行きを感じる異文化の方が、ずっと日常に対する異化作用は大きいし、それが古く大げさな意味での「革命」のイメージをなぞる必要はない、ということにもっともっと自信を持ってほしい、その方がずっと風通しよく、伝わりやすいものになるのにな、と思った。


しかし、ガンダムヒストリカ&某ムック仕事で超多忙中の中川さんは、さすがに思い切り疲れた表情をしていた。いつもアグレッシブな活動、頭が下がります。