先日の日記に、思い付きでつけたタイトルがきっかけで、

暗黒大陸じゃがたら(後にJAGATARA)の「南蛮渡来」を聴き返している。
20歳前後のある時期、このアルバムは本当によく聴いた。
ロックを聴きはじめた10代の頃は、ロックンロールのシンプルでスタイリッシュなカッコよさ、青春的なセンチメントや分かりやすい不良性といったものがないこのバンドの良さが、まったく分からなかった。
ストレートで分かりやすい青春的なロックよりも、レゲエやファンクの方が高級なのだとばかりに殊更振りかざすような、当時の音楽スノッブ連中や、アングラや反体制に依存して群れてるような取り巻き連中の了見の狭さへの反発から、遠ざかってたところも正直ある(あと、単純に音の指向、アケミのVoが最初頼りなく聞こえたこととか、OTO氏の色が強くなってからの、頭でっかちなエスノ指向に乗れなかったというのも、実は大きい)。


けれど段々、自意識系のロックの「敏感さ」競争や、世界を「内面化」して処理したことにしようとする先回りのセコさと傲慢にうんざりし、かといって単に開放的な快楽原則のみの音楽にも飽き足らなくなっていた時、じゃがたらのメジャーデビューと共にCD化されたこのアルバムにはまった。
中産階級のガキ共のロックであることを、本気で超えようとしている、と思った(安易に超えたつもりになったり、所詮と端から要領よくーその実まんざらでもなくー居直るのとまったく逆に!)
歌詞をビートやメロディに乗せて伝える音楽、意味を理解しつつ浸る音楽とは、まったく別の方向から訴えてくる音楽。リズムの反復で躍らせ酔わせる、アフロファンクのスタイルを取りながら、掻き毟るような固いギターをはじめささくれ立った音像が、思い切り不敵なものを感じさせる。

雨よ降れ、地よ踊れ 死に行く者の革命だ
風よ吹け、足を鳴らせ ゴキブリ共のお通りだ
ヤラセロセロ セロセロ
ヤラセロ ヤラセロセロセロ
『クナニマシェ』

僕は、ことさら音楽を他の表現から特化して、カッコつけてるような薄っぺらい態度が嫌いだ。
そういう「無責任さ」を引き受けることもできないヤツらの「偽善」が大嫌いだ。
言葉には言葉の、言葉が担うべき仕事がきっちりある。
(同様に、内面や自意識に丁寧に向き合いコミュニケーションしようとする歌、音楽にも、聴かれるべき場所や役割はちゃんとある)
けれど、言葉や意味が、まったく救いにならない局面というのが、確かに人間にはある。
言葉が、いたずらに人を「内面」や「個」に閉じ込め、縛ってしまうことがある。
そのことに謙虚でいたい。
そして、自由でいたいと思う。


僕たちの周りで、意味や形が壊れてしまっていたとしても、それを取り戻すための答えなど無かったとしても、それでも僕たちは今日も明日も生きていく。
飢えや戦争を「日常」として今日も生きている人もいる。
万能の答えや解決などないし、絶望的なことなんて、ちょっと物事に本気で踏み込めば、どこにだって転がっている。
それでも、生きていきたい。
「変えられないものを受け入れる力 受け入れられないものを変える力」が欲しい。

思いつくままに動きつづけろ
思いつくままにとばしつづけろ
思いつくままに走りつづけろ
思いつくままにたたきつづけろ
思いつくままに壊しつづけろ
思いつくままに踊りつづけろ
思いつくままにしゃべりつづけろ
思いつくままにしゃべろ、しゃべろ、しゃべろ
『でも・デモ・DEMO』

アケミが願った、自由でタフでアナーキーな模索。
しかし、ネットなどのおかげで、みんなが匿名で思いつくままに喋ることの敷居が思い切り低くなっても、誰もが「自分が自分であること」「人間が人間であること」に正当に苛立ち、向き合うことが出来ないままに、自分を棚に上げた底抜け脱線ゲームは荒みを深め、人間の卑小さを露呈するばかりに見える。
ぬるい頽廃の中では、人は、正当に「堕ちきること」はできないらしい。
それでも、今日も生きていかなきゃならない。生きていたい。


そんな今、ジャンルだのルサンチマンだのせこい能書き一切無しで、ファンクもレゲエもロックンロールもチンドンもええじゃないかも、同じ次元で、最低で最高の人間共の祭りとして叩き、鳴らすじゃがたらの音が切実に響く。
人類ミナ兄弟。


宇多田ヒカルじゃがたらを聴かせてあげたい。