「みんなの願い 同時には叶わない」、でも・デモ・DEMO

宇多田ヒカル誰かの願いが叶うころ」の、「あなたの幸せ願うほど わがままが増えてくよ」というフレーズを聴いて、太宰治の「家庭の幸福は諸悪の本」(家庭の幸福)という有名なアフォリズムを思い出した。
家族の情愛といった、それがエゴであることが意識できにくい程に無意識なエゴ、というものこそ、万人への愛やフェアネスのもっとも重大な敵であり、そこをはみ出したものを平然と疎外するものであるという認識。
自分のエゴを自覚し、欲望をチェックしようとする聡明さ、鋭敏さを持とうとすることは、「自分の幸せ願うこと わがままではないでしょ」と疑いなく信じて恥じない現在には、とても大切なことだと思うけれど、同時に、そこにばかり目が行きこだわっている自分というのも、ちょっとヤだな、恥ずかしいな、とも思う。
矛盾していているようで、これはどちらも僕の中に強く根を張っている、容易く手放せない感情だ。


エゴであると自覚し、誰かが泣いていたとしても、捨てられない、変えたくないものがある。
だから人間は、徒党を組み、その中に自分を埋没させつつ保身や利得を計ろうとするものでもある(利得には例えば「生き甲斐」なんてものも含まれる)。
そのことを、人はともすれば、意識せずに平穏に暮らしたい、忘れていたいと願うようなものでもある。


人間が人間であること、あるいは自分が自分であることをやめられないということ、それにどう逆らい、また受け入れていくか。
そこに、いたずらに自他の利己心をうしろめたがることに酔うのではなく、いかに向き合っていくか。


そういう意味で、「永久保存版」の高井さんの、イラク人質事件の世間論による考察http://www.jp.piko.to/はとても面白かった。
ただ、僕なりに少し付け足すなら、今は、世間が具体的な日常の「形」(阿部謹也いうところの「器世間」)を失い、流動化させているために、拠り所や余裕が失われ、ただ孤独に耐えられない心性だけは残って、より他人の動向をうかがって目を光らせ、帰属先、便乗先を探して汲汲としている、あるいは、そうした不安定さを埋めるために、敵やスケープゴートを探して叩くことで溜飲をさげ、肯きあう。それが「本音」として正当化されていくうちに、「やりっぱなし」の荒みと不信感が益々深まり定着していくというループがおこっているように思う。


こうしたことに流されずに距離を取れる、自立の根拠を自分の中に持っているような、強い個人の自由さに憧れるけれど、そうした資質の強さを持っている人(そして、そこに過剰に憧れ同化したいと願う人)はまた、そうできない人の現実が見えなくて、意識、無意識に軽視しがちなことが多いとも思う。
そして、そうした姿勢に憧れながら、どうしようもなく弱さを抱えている尾崎豊カート・コバーンといった人達の表現に、出口がないからこそ共感してしまうところある(それにずぶずぶに溺れ込んでるナルちゃんも、またキツいものだけど...)


本当に、人間が人間である限り、答えのでないような問いだけれど、だからこそ問い続け、その先に調和を願うこと。
万能の答えがないことを前提として受け止めるタフさを持つこと。
日々の暮らしのリアリティの中に、地に足のついた手がかりが失われている分、なんだか青臭く、悟ったような口調になって何ともこっぱずかしいが...
だから、『誰かの願いが叶うころ』を歌うヒッキーの姿勢や心根をとても好きだし共感もするけれど、どこか性急で焦点を結び損ねていることも感じる。

江戸時代の町人は勿論、武士でさへも、二六時中、ひたすら忠を念じ、利己心と闘っていた訳ではない。彼等は適当に利己心、立身出世主義、享楽心の吐け口を持つてゐた。ただ、今日と異なるのは、彼等には文化があつたという点である。利己心を適度に発揮し、そのぶつかり合ひを適当に調整し、また時には巧みにそれを捨てる整然たる様式が存在したのである。それを、今日の吾々は制度や法で解決できると思ひこんでゐる。
(中略)
だが、失われた文化を早急に、しかも人為的に再建する事など出来る筈が無い。率直に言って、解決策など何処にも無いのだ。それなのに一方では性急に解決策を提示したがる人々がをり、他方、それをありがたく押し頂かうとする人々がゐる。そこから馴れ合ひと欺瞞が生じる。さういふ事にはもう充分懲りた筈ではないか。
福田恒存『続 生き甲斐といふ事』より