円還の閉じた世界に風穴を

さんざん引っ張ってきてしまいましたが、サイバラについて書くのはとりあえず止めておこうと思います。


「私は普通のいい子じゃないのよ」と上手に主張することによって意識的に別の層に媚びていい子になる、もっとシンプルに言うと、わかりやすい弱者になることで強者になる、という振る舞いを批判しようと思うと、どうしても「お前はずるをしている」と、更なる弱者が言い立てているようなかたちになってしまい、どうにも格好悪いことになりがちであるし(しかも、彼女はそれがベタに映らないよう、女であることを利用して安全に器用に無頼ぶっているので、そのからくりを批判するのは、どうも野郎としては分が悪い)、ギャラリーだって自分がそうした面倒くささの当事者だと思いたくはないものだから、なかなかストレートに意図が伝わらない。


こうしたことというのは、どうしても通りの悪さ、立場の弱さからしか意識されないものだから、そこにこだわることにはかなりの孤立と逆風を覚悟しなければならない。
そこは黙ってスルーして、そうしたものとはなるべく関わらずにもっと愉快なことを考えるほうがずっと人生効率がいい。


そういう意味では「人生あきらめが肝要」という言葉には、一抹の真実があると思います。


しかし、こうして黙っていると、言葉を持たず、自分の立場を相対化し肯定できない人に、結果的にしわ寄せが集中してしまうのを放置することになる。


そこで代わりに、そうした器用な連中に媚びることで裏口から利得を得ようとしている「女々しい男」のずるさを取り上げ批判してみようと思います。


今回取り上げるのは、話題の芥川賞受賞作に対する年長世代の批判を取り上げた、切通理作氏の日記。
http://www.gont.net/risaku/index_hitokoto.shtml(3月6日分)


僕も件の『論座』の特集を読んでみましたが、要は、中野さん、沼野さんは、受賞作があまりにも世界が狭くて自分に閉じている、と批判されているわけだ。
で、確かに切通氏の引っかかった「そんなに他人の目が気になるのか」という中野さんの言い方は僕も嫌だったし、それについての、自分は高校の頃休み時間にいたたまれなくなったり、友達の輪の中で言葉にならない疎外感を感じたことがない、といったエクスキューズも、そうした自分の資質や幸運を相対視する視線が欠けていて、ちょっと無神経だなとは正直思いました。
それでいながら、こうした若者の自意識過剰が気になって仕方がないところにも、格好悪さを過剰に嫌う、80年代出自の女性ライターらしい美意識の狭さが見て取れて、僕には窮屈でもあった。
沼野氏に関しては、こうした実存的な孤独をスルーして、能天気な説教をしていられる学者の机上に閉じた正論で線引きして事たれり、な無神経が駄々漏れといった感じで、論外だと思ったし。


自分の世界が狭く閉じていて、それを広げる手がかりがなかなか持てないことに「そんな大したことかよ」と、僕は思わない。僕はそんなに、自分を高くは見積もれない。
手がかりを見つけ、作ることが、そうした人にとってどれだけ難しいことかも、ある程度は知っている。
そうした人が、特殊な場や能力を持たず、「ここ」以外の選択肢や想像力を持たずに普通に暮らす中で、「世界を広げること」がどれだけ難しいことかを、自分の経験からも、周囲の人々を見ていても、それなりに痛感している。


けれど、だからこそ、そんな自分の痛み、自分の都合を相対化すること、それだけが世界じゃないことを知ること、距離を詰めて生きることはできなくても、他者を見て、受け入れようとすることの大切さも、やはり痛感する。


だから、切通氏の、「それぞれが自由に自立することによって、他者に対して我関せずといったムードが広がっており、それに対して今回の受賞作に見られるような、他者が気になってしまうというセンスが有効であり、大切だ」といった言い方には、明らかにすり替えがあるし、状況批判にことよせて、受賞作のセンス(ひいては、それに擦り寄りたくなるような自身のセンス)を、正当化し、持ち上げすぎていると思う。
繊細さを殊更否定するつもりはないけれど、繊細さが自他を相対化し公平であろうとする強さ、他者に優しくあろうと努力できる強さを伴ったものでなければ、それはまさに「自分にかえってくる」優しさでしかない。


僕は、こうした形で自分の繊細さを主張する人々が、往々にして小心だけどプライドが高く、自分の不幸が相対化されてしまうような他者の現実に対してまったく無神経だったり、意識的に埒外に置きたがるような傲慢さを隠し持っていることを知っている。(最近の切通氏の仕事には、そうしたものに与して正当化することで、本当に立場のないものを、自業自得として排除する事を正当化しているようなところがしばしば目に付く。なんだかんだ言って、彼がとりわけ肩入れする綿矢りささんは美人で、かといって風体にも言動にも過剰なところがなく、大方から反発を受ける要素のほとんど無いタイプの人だしね)
認識を先回りさせて「わかっている」ことを上手に取り繕うことで、本当に他者と向き合うことを回避しがちであることを知っている(そうした気配は、正直両作からも感じた)。
そうして、自分の立場を、公正に、穏当に引き受けられないことが、現在の生ぬるい閉塞感を生んでいる、いちばんの元凶だと思っている。


だから、「世界が狭い」という指摘は、やはり必要なのだ。
(けれども、中野さんにはその上で、彼女が愛読しているという、色川武大梅崎春生私小説の価値を、もう一度掘り下げて考えてみて欲しいと思う)


切通氏は、綿矢さんに、海外で好きなファンタジーでも書けばいい、などと言う。
勿論、ここからは個人の自由に属することだけれども、僕は綿谷さんに、この世界が狭く閉ざされている視点、立場を忘れないで欲しいと思う。
自分を特化してしまうことなく、そこから世界を広げる困難の中にいる人たちの現実を忘れないで、世界を広げ、その中で得た視点を、彼らに投げかけてあげて欲しいと思う。
そこを潜っている人にしか、それはできない仕事だから。