サイバラの話を別件でお茶濁したら、「ヘタレ」とお叱りを受けてしまった...

bakuhatugoro2004-03-19



元はと言うと、書架の整理中に放り出されてた『晴れた日には学校を休んで』を、たまたま読んだ同居人の、この人「私いい子じゃないのよ」っていうことで、別のところでいい子になろうって計算してるよね、本当はこの人全然少数派じゃない」という感想を聞いて、ちょうど尾崎特集のことで鬱々としてたところでもあり、ほとんど消えかかっていた印象がよみがえってきて、確かにこのやり口はむしろ当事者にとっては敵なんだよなあ、という気持ちを新たにしたわけだ。


『晴れた〜』の主人公は、「どうしてみんなと同じじゃないといけないの」「お母さんは、私がみんなと同じで悲しくないの」と、思う。
けれどこれは、「みんなと同じが悲しい」という立場をもう知っている、事後からの視点だ。そこには、それを支持してくれる(リベラルな)層が存在する、という計算が、あらかじめ働いている。
そして彼女は、そういう層への甘え方というのを、とてもうまくやる。
甘やかしている側も、そうして気持ちよく甘やかさせてくれる彼女を、「好ましい弱者」だと思う。
そこで、意識される世界の円還が閉じてしまうわけだ。


けれど、実際の弱者というのは、なし崩しに物事の渦中に放り込まれた状態にあるから、こんなふうに、状況と自分を相対化して、自分の中に「正解」なんか持っていない。
むしろ、「そういうものなのだろう」と思っているし、適応できない自分を密かにひたすら(意識することさえ)恥じている、という感じだろう。
時には、だからこそ過剰に適応しようとしているくらいじゃないか。


そしてまさに、うちの同居人というのが、人の気持ちを敏感に真に受け過ぎる、生真面目が過ぎて自意識過剰な性質のために、高校にも、そしてこうした「正解」の中で調子付いているフリースクールの空気にも馴染めず、テンパッて行けなくなってしまったしょうのないヤツなので、そんな彼女には、こうした「善意」や「弱者」というものの利用のされ方、円還の閉じ方が殊更気になるわけだ。
可愛げがない、立場が無い、だから応援しても利得が無いから隠然と切り捨てられてるようなヤツこそが、本来的には弱者だったりするものだから。


俺も、ギャンブル業界なんていう、野郎一色の世界という「盲点」に上手く潜り込み、「別枠」としてうまく可愛がられわがままを通す処世をやってるサイバラを見ても、正直かなり共感するところはある。
けれども、別の見方をすれば、サイバラサイバラなりに、ズッコイやり方であっても、自分の持てる資源の中での処世を、精一杯巧妙にやってるわけで、ある意味「さすが」って言い方もできる。
世間に「公正」なんてものを期待して、こぼれて出し抜かれている方が間抜けなんだ、っていう立場だってある。
俺は、そういう開き直りは嫌だけれど、同時に、あまりにこうした欺瞞ばかりにこだわり、そこにしか目が行かなくなることも、一抹ある種の岡引根性じみた卑しさに繋がるところがあるとも思う。
そこで今回は、「気持ち良く受け入れること」を正当化してる側も、実は共犯である、ってところに軽く触れて、お茶濁しちゃったわけですが。


でまあ、「俺にとって俺だけが すべてというわけじゃないけど 今夜俺誰のために生きてるわけじゃないだろう♪」ってことで、このあたりで勘弁していただきたい。