ショーケン主演作を、片っ端からTUTAYAで借りて来て見直しているついでに観た、83年の水谷豊主演作。監督工藤栄一。

bakuhatugoro2004-03-09

http://www.jmdb.ne.jp/1983/dg003530.htm


水谷豊は、粗大ゴミ引き取り業者で運転手をやっている、都会の一人暮らしの若者。冒頭、後輩の島田紳助と馬券のやりとりしてるシーンから、冴えないブルーカラーの日常を優しく描かせて並ぶもののない工藤栄一のテイスト全開で、好みド真ん中の映画であることを確信。


貧しいながらも真面目に務める水谷豊のわび住まいに、深夜、同郷出身で失業中の友人(平田満)が訪ねてくる。
「女も寄りつかなそうな部屋だ」と絡み、虚勢張った自慢話の挙げ句、「ちょっと辛抱が足りないんじゃないか」「明日も仕事だから勘弁しろ」と迷惑顔の豊に、「お前に俺の気持ちがわかるか!」と逆ギレして暴れるダメ友人。
翌日、実は煮詰まった挙げ句に強盗殺人をやらかしていた友人の共犯と疑われ豊は、アリバイ証明を電話番号しか知らない彼女(甲斐智枝美)に求めるが、実は素性を偽っていた金持ちのお嬢高校生だったので、親にバレるのを恐れた彼女は豊を裏切る。
しがない労務者だったために、露骨に疑われ、散々な仕打ちを受けた挙げ句になんとか疑いは晴れたものの、その後職場では鼻つまみ者扱い。イヤミを言ってくる元ボクサーの上司(阿藤海)に反抗すると、逆に叩きのめされてしまう。
そして、先輩の田中邦衛の「お前は、仕事を失くすってことがどういうことだかわかってねえ」という制止にも、「辞める時は、逃げるように辞めちゃ駄目だ。きちんと挨拶していけ」という助言にも、若い豊は耳を貸す余裕なく、逃げるように職場を去る。


と、このあたりまでは、和製ニューシネマテイストの定型でありつつ、リアリティ抜群の展開だったんだけれど、この後再び絡んでくる恋人の甲斐智枝美のキャラクターにリアリティが無さすぎ、彼女とデキた母親の情夫(財津一郎)を勢いあまってブチ殺し、それがためにヤクザと警察に追われ、ハードボイルド化という展開の荒唐無稽さが、ちょっと取ってつけたように感じられた。
映像的にも、リアルにディティール描写で責めていた前半に比べ、冗長な「カッコ付き」のアクションシーンと、工藤栄一特有の耽美なイメージショットによる内面的な表現の入れ子で繋いでいく後半は、対象への粘着力不足というか、例えば同時期の新鋭監督による『TATOOあり』とか『ガキ帝国』あたりと比べると、ベタな定型をなぞっているという感は拭えないと思う。ある種、水谷豊主演の(この手の趣味の人間にとっての)アイドル映画だな、という印象を持った。


とはいえ、これも唐突に登場する、孤児院から逃げてきた少年と豊が、ラスト、旅路の果てに行き場を失くしながらも、雪山の中でじゃれあい、遊ぶシーンなど、どうしようもなくナイーブ故に行き場なくダメになるヤツへと目が行ってしまう、工藤栄一のテイストが全開で、こういうものが無条件に好きな俺としてはどうにも逆らい難く、じゅんときてしまう。
『傷天』最終回の「一人」といい、『野獣刑事』の「ローリング オン ザ ロード」といい、『ヨコハマBJブルース』の「ブラザーズソング」といい、そして『その後の仁義なき戦い』や本作での柳ジョージといい、工藤栄一にはジャパニーズブルースが本当にピッタリとハマる。


しかし、この時すでに83年。『熱中時代』でのブレイクも落ち着いて、三十路も過ぎた時期に、ばっちり労務者青年(というか、労務者にもはまりきれない冴えないヤツ)の役が似合ってしまう水谷豊。どこか、70年代の微温な優しさと、真面目な固さと緊張が表情に残り、だんだんそのポジションを柴田恭平に奪われつつあった時期だ。
『熱中時代 刑事編』『事件記者チャボ』『刑事貴族』と続く、軽妙なアクション路線の中で、うまく成熟できずに青い固さを残している彼の不器用な重さが浮き、すべっているように当時子供心に感じられ、正直それが暗くて嫌だった。
そういう意味でも、この映画は、豊が本当にその資質を全開に光ることができる、優しい箱庭のような、(ある種の)アイドル映画と言えるんじゃないかと思った。


そして、工藤栄一自身もまた、実録ヤクザ映画全盛の時期にエースを張るには繊細すぎ、またリアルな「作品」って方向に行くには、かつてのフツウのオッチャンやアンチャン(つまり、現在のVシネの客層)に向けて娯楽映画を作る事にこだわりが骨絡み過ぎた、独特のポジションの人だったのだな、と再認識。