「言葉」のない者が発した叫び

某誌の次号特集が尾崎豊に決まり、正直おもいきり気分が重い。
人気やネームバリュー、日本のロック史の中での実際の存在感の大きさ(いい意味でも悪い意味でも)に比して、これだけ特集時期が遅れたことからも明らかなように、出版や音楽マスコミの当事者にとって、彼は(商業的には金づるであっても)正当に省みる必要を感じるような存在じゃない。
(そうじゃないヤツは、ナイーブなところばかりを取り出して勝手な共感に閉じこもり、無反省にズブズブになって、思い切りキモチワルイことになっていて、そいつらが尾崎の商品イメージを歪め、決定してしまっているので、尚始末が悪い)


以前、小沢健二は、大学時代の恩師柴田元幸との対談で、「(ブライトライツビッグシティの)ジェイ・マキナニーは、練馬みたいでダサい」と言っていたが、尾崎こそ「練馬」的なるものと、その時代を最も体現した表現者だった。
伝統や地縁、血縁のリアルな背景は崩れ、かといって、メンタリティはかつての時代を引きずっていてウエット。
だから、「歴史」として珍重するには貧しく不安定で、自由に個々の趣向に突っ走ることに衒いのない後の世代から見れば、ぐじぐじと「自分」にこだわっていて中途半端。
このあたりの、上から下からも孤立している事情は、下にも書いた通り。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040215#p2


だけど人間、何の後ろ盾もなく、自分を取り巻く状況から、冷静に距離をとり、超然とできるものじゃない。
当時は、自信なく自分を疑ったり、内省したりすることそのものが恥ずかしい(今でも本当は、地方の、普通の10代にとっては、そんなに事情かわらないと思う)、「まともに明るいこと」から零れ落ちてしまうことだった。
オタクとか、サブカルとかいろいろな趣味や人種の選択肢なんか無かったから、零れ落ちてしまうことは凄く怖いことで、だから、「零れ落ちないこと」そのものが生きる目的になっているような、凄い息苦しさがまん延していた。


世の中が貧乏ではなくなって、「不器用でも実直に生きていくこと」に甲斐が無くなり、「人間誰だって自分の欲が大切」というなし崩しの開き直りがまん延して、「優しさ」の価値が暴落した。
そんなものを必要とするヤツは、ダサいヤツだった。
生きていく上での器用さや、調子の良さばかりが幅を利かせていた。


「カッコワルイ」こと「ダメ」なことが、「ちょっと力の抜けたお洒落」として意味を持つような状況じゃなかったし、オタクになって閉じこもるような根拠や背景も持っていなかったから、この状況に逆らって叫び声を上げるには、大義名分が必要だった。
それが「自由」とか「愛」とか「反抗」だったってわけだ。


そうした、状況の中のリアリティ、声を発した者、受け取った者の現実を見ないで、ただ後出しジャンケン的に「この表現はベタだ」「馬鹿だ」「キザだ」と言うことになんか、何の意味も無い。
尾崎は、自分と他者や社会のつながりについて、フラットに掘り下げ、考えるということについてのフォーマットを持っていなかったから、自信無げだったり、逆に極端にヤケクソだったり、ポーズがわざとらしかったりして不格好だから、文化の中に自分の居場所を求めようとするようなタイプの人は、やはり6、70年代のカウンターカルチャーとしてのフォーク、ロックや、現代のサブカル的ロックにはまっていくようになる。
それは、ある程度仕方のないことだとも思うけれど、そうした「あらかじめフォーマットがある」「そうである自分が肯定されている」場所じゃないところで生きていくしかない、その中で「適応できない」自分を恥じたり、それでも言葉にならない疑問や違和感を拭いきれない孤独を生きている者には、尾崎のような表現しか、本当にリアリティを持って響かないと思う。
少なくとも、僕はそうだった。


ことさら尾崎の表現の評価を上げたいとか、彼を素晴らしい人間だとか言いたいと思ってるわけじゃない。
彼自身の人生や、表現の展開については、世界に向き合う方法論の手がかりを掴む前に自滅してしまったような痛みや苛立ちの方を強く感じてしまう。
けれど、彼が声を上げ、我々がそれを受け取ったことのリアリティだけは、ちゃんと引き受け書き残したいと、ずっと思い続けてきた。


「言葉を持っていない人」が本当は必要としている言葉を発したい。
僕がものを読んだり書いたりするようになった動機は、結局そういうことだ。
けれど、はじめから「言葉を持った世界」に守られ自己肯定できていたり、言葉を持つことによって自分を特化し「アガって」しまった人達は、彼等の存在を無視して、そこに向き合おうとはしない。
それは、そうした燻っている人達に関わる事で、自分が割を食いたくないからだ。
「言葉を持ったからって、幸せだとは限らないんだから、むしろ諦めた方が良いんだよ」なんて理屈を盾にしたりして。
結局すべては自分の為、面倒見たくないってことに尽きるんだよ。


この現実を構成している当事者として、自分も何がしかの責任がある、責任を取りきれるわけではないにしても。
そういう自覚を回避して開き直ってるようなヤツを、俺は大嫌いだ。


本当は、西原理恵子のことを中心に書くつもりだったんだが、また思い切り前置きが長くなってしまった。
続きはまた後で。