貧しく孤独だった時代を、少しの気負いもなく淡々と語りながら、井上尭之はやわらかく笑いかけた。
その笑顔を見ながら、私は長い間の謎が解けたように思った。自分の作品で恐縮だが『寺内貫太郎一家』や現在放送中の『前略おふくろ様』−この二つの音楽だけ聞いてもお判りだと思うが、彼の作品は、彼の音はあたたかい。かなしいほどあたたかい。おどけていながら、底の深いところで涙ぐんでいる。甘いようでいて、女には絶対にない男のきびしさと誠実さがある。どうしてだろうと思っていたが、その秘密は、この人の生きてきた三十五年の人生にあったのだろう。


向田邦子の男性鑑賞法』より

復活ライブに備えて、というわけじゃないけど、ここ数日、尭之さんのセカンドソロ『Don't drink the water』ばかり聴いています。
A面に、『祭ばやしが聞こえる』で使われたインスト曲がたくさん収録されていて、成熟と哀愁が静かに刻まれたアルバムが、倍シミます。
今回のライブでも演奏されるかな?
勿論、劇伴ナイトhttp://www.axcx.com/~sato/senbikiya/info.html#0228では、かけまくるよ!


劇伴ナイトの映像の準備がてら、『傷だらけの天使』の最終回に、久々見入ってしまった。
この、ザラついた寂寥感っていうのは、ホントに空前絶後だよなあ。
真夜中のカーボーイ』とか、この頃のアメリカンニューシネマなんかは、みんなそうだって言えばそうなんだけど、これがお茶の間巻き込んで、同世代イベント的に見られてたっていうのがね。


で、思ったんだけど、これって無茶苦茶寂しい、キツイ映像ではあるけれど、これがちゃんと「大人の時間」に放映されることで、世の中の了解の「ある場所」をしめていたことって、すごい救いだったはずだと思う。
だって、今、「どうせ人間なんて、こんなもんだよー」なんてヌルく殺伐としながら、しっかり宵越しの金は確保して、まんざらでもなくやってるヤツらを喜ばせるようなものばっかで、テレビだって何だって埋まっちゃってるもの(イメージ)。
これじゃあ、くたびれて帰ってきてテレビつけたって、「俺なんか、世の中の数に入ってない」って気分になる人、実はいっぱいいると思うよ。


『傷天』って、片方でハンパじゃなく洒落てるし、トッポいカッコよさの塊だけど、同時にとことんダメなヤツの孤独にも付き合ってる。
全部がちゃんと視界に入ってるから、ドラマとして懐が深い。
「人間」や「幸福」の基準値を高く見積もって帳尻合わせようとして、弱い所に疎外感感じさせるようなところが無い。
変に線を引いていないから、みんながドラマの中に住めるんだな。


最近出てる、『傷天』や『太陽』のリミックスを聴いてても、『傷天』意識したようなドラマ見てても、決定的に欠けていて俺が物足りなく思うのは、傷天や尭之さんのこうした部分が、全く受け継がれていないってことについてだ。