ただ、こうした実直さのその後の行方を思うと、

静かな諦念という倉本の結論に同調するにはまだ僕は若すぎ、また欲深すぎるようで、裏寂しさと甲斐のなさの落としどころを無意識に探すように、ふと、スコセッシ、デニーロコンビの『レイジング・ブル』を久しぶりに観たくなった。
デニーロ演ずる主人公のライト級ボクサー、ラモッタの、自分でもコントロールできないような過剰さゆえに、共同体にはまれず、したがって共感や道徳が救いにならない、反省もできない(しようにも変わる甲斐性などはじめからない)、猪突猛進するだけの生き様がてらてらと底光りしているような、オスの匂いが横溢した濃厚な画面の空気に、あらためてシビレまくった。
引退後身を持ち崩し、ドサまわりの口上師に落ちぶれた彼が、楽屋の鏡の前でボクサー時代のように気合を入れるラストシーン。終わりがあるからこそ救いがないことが救い足りえる映画ならではのマジックだとわかっていても、やはり観るたびに心に灯がともる思いがする。


そして、こういう作品を見ると、時代や個性は違え、ある特定の共同体が求め信じたがっている建前に奉仕するという基本的な方向性において、僕が倉本に対してもクドカンに対しても、
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040104#p1
反発している部分というのは共通なのだなということが、鮮明になってくる。
同時に、自分が苛立ち、飢えているものがここにある、と強く思った。


このテーマ、こちらに続く。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040215