昨夜も、「ガキ帝国ナイト」のフライヤーを置きに新宿、渋谷方面に。

bakuhatugoro2003-10-12

移動中にパラパラと再読していた武田泰淳『目まいのする散歩』の中で、いま現在自分を取り巻く気分と風景を、一気に顕在化させるような一説に、不意打ちのようにぶつかる。
今日は、そのフレーズを覚え書きとして抜粋。

明治神宮の表参道は、今や、日本のシャンゼリゼエと呼ばれているらしい。同潤会アパートの蔦がからんだ煉瓦建。教会。外人向きの美術骨董品店。気の利いたレストラン。中華料理店。ビーフステーキ専門店。そこをとびきり新しいスタイルの若者たちが歩いている。その若者たちの服装や髪型は、男女の区別がつけにくい。ともかく、ファッションの先端を行っている姿は面白いものである。馬も馬車もどこにも見当たらないのに、純白でふちどりのある貴族的な乗馬服、金具の音のする乗馬服を身につけて、ムチを持ち、傲然と歩いている若者もいた。その若者たちの目的を知ることは不可能である。防衛庁も特審局も、彼等の目的が奈辺にあるか、探索することは出来ないだろう。楽しげに、無神経に、彼等は歩いていく。楽しげに、無神経に、と形容するのは、おそらく彼等にとって不本意にちがいない。真剣に、といった方がよいであろう。何と沢山の苦悩が、そのあたりの空気に浮遊していることだろう。それらの心理の浮遊物は、何一つ他人には理解されないまま、目に見えない塵のように漂っている。壁のようにたちふさがる亡霊か、ほかの星からきた怪しき生物の「暗示」「命令」をうけとったかのようにして、息をつまらせることなく、われわれは歩いて行く。街頭にあらわれないで家並みの室内にとじこもっている苦悩も感じとられる。それは、もっと奥深くひそめられていて、じっと我慢しているにちがいない。耳の外を流れる街頭のささやきは、沈黙のささやきを通じ合っている。それは「神秘なるざわめき」としか称しようのないものである。「ざわめきの聞こえる散歩」だから、サンポなのである。都会が眠っている間も、明日の目覚めを待ちうけて、ざわめいている。諸行無常の方角に向かって、地球が太陽のまわりをめぐるようにして、どうしようもなく運行している。あてにならぬ素人の運転みたいに、諸行無常は緩慢に進かと思えば、急に速度を増す。諸行無常のスピードは測定しがたい。しかし、「彼」はとどまることをしない。とどまっているかに見える瞬間こそ、「彼」は大声をあげて突進している。

70年代半ばの時点で、晩年の戦後派作家によって、資本主義の果て、ポップと分衆化の心象風景が、批評的に、同時に詩的な比喩によって体感的に受け止められ、描写されていることにいることに、少なからぬショックを受ける。
そしてさらに、ドストエフスキーのキャラクターが召喚され、こう続く。

イワン・カラマゾフ風の人物なら、多分、こうつぶやくだろう。「これらの人類に味方してやることは出来そうもない。あまりにも多種多様で、しかも同じ人類らしき思想のもとに生きている奴らだからなあ。彼等はいかなる瞬間にも自己の欲望を手放そうとはしない。ということは、つまり、彼等の主義主張を離れることは出来ないということだ。冷酷な神の眼からすれば、彼等は常にぐうたらであり、つねにまじめなのだ。私は彼等のぐうたらを許さないと同様に、彼等のまじめさを許したくはない。一見、アンチ・ヒューマニストと見える私が、どれほどヒューマニストであるか、そんなことをいいきかせたとしたって、何の役に立ちはしない。インチキのヒューマニズムは、あたりを充たしている。そのような不徹底なヒューマニズムこそ、まごうかたなき人類愛だと思いこんでいられるわけだ。人類のざわめきは、神のうるさがるほど騒々しいものであり、それを全部聞きとってやること(あえて聞きとどけてやるとまではいわないが)が、神の愛なのであろうが、それが熱いか、冷たいか、神の体温のことなど、俺の知ったこっちゃない。フン、神秘なるざわめきか。それは絶対の沈黙を終局の運命と定められた奴らの、せめてもの抵抗かもしれんからなあ。だから俺は、そのざわめきを限りなく愛し、かつ、限りなく嫌悪するのだ」。こう書いてきたところで、私自身は、イワン・カラマゾフではあり得ないし、やはり、ボケの親分のつぶやきをつぶやいているにすぎないのであるが。
イワンばかりが、カラマゾフ家の一員ではない。アリョーシャも、ドミトリイも、彼らの父親のフョードルもいる。僧院から抜け出して、イワンに逢いにきた青年僧アリョーシャなら、こんな具合に話しかけるだろう。

アリョーシャ「兄さん、わかっていますよ。ずい分とあなたは苦しまれたものですねえ。あなたの苦しみを思うと、私も切なくなります。ぼくは信仰をめざすキリスト教徒であるのみならず、あなたと同じカラマゾフの一員ですからねえ。しかし、人間に対するあなたの考え方は間違っています。人間をそのようにきめつけることは、救いを拒否することです」。
イワン「お前は、ぼくを兄弟と呼んでくれたねえ。ありがとう。お前はやさしい正直な若者だ。人間が神に救われる動物だということを深く信じている。それに反対はしないよ。だって、そう信じつづけて、お前は一生を終えることになるらしい。(信仰を裏切って、親父さんよりももっと極悪非道な男に変身しない限り)信仰を守り続けた方がよいか、黒い裏切り者に変身した方がよいか、私は知らない。私は、しかし、黒い裏切り者ばかりでなく、あらゆる堕落者になることを、少しも恥ずかしくないことだと覚悟している。私は、彼らを救ってやろうとはしない。もともと彼らは、ありのままの本質をさらけ出して消え去るだけだ。お前は彼らを救ってやるだろう。彼らの何千何万分の一だけは。それがお前の使命だからだ。輝いているお前の眼をみるだけでよく分かるよ。しかし、泥棒や殺人犯の眼が輝いていなかったと、誰が保証できるか」。
ア「分かりますよ。いや、分かろうとつとめています。だからこそ、神様はいらっしゃらなければならないのです。昔から今まで、未来永劫に神様はいらっしゃるのです」。
イ「神を信じないで死んでいったものたちはどうなるのか。今さらどうもなりはしないんだ。と言ってのけることは人類愛に背くことだろうか。ぼくは、それで充分なのだと思っている。救いなどなしでも、彼らは立派に死んでいったからなあ。まさか、それが神の愛などとはいいださないでくれ」。
ア「それだからこそ…。いや、よしましょう。イワン兄さん。あなたほど神様のおそば近くにいる人はないと私は思います。カラマゾフ家の人々は(おとうさんも含めて)神様のおそばにいます。ただ、それに気がつかないだけです。ドミトリイ兄さんの酔っぱらいぶり、暴力、一たん思いつめると火のようになるあの性質。あなたの不可解な哲学。それらはみな、私に神の声をよびかけるのです。私が変身する? それはあり得ないことではありません。堕落者、裏切り者、救いなき人々の一員に私がなるとしても、それでも私は神を信じます」。
イ「いいよ。いいよ。まだしばらくの間、ぼくたちは二人とも生きてゆかなければばらない。神秘なるざわめきは、まだまだ今日や昨日、消えてなくなるわけではないんだ。小説も音楽も思想も主義主張も、その間は、まだ余命があるわけだからねえ」

イワンとアリョーシャの会話は、脳血栓の私の頭の中で、泡の如く浮かび上がり、泡の如く消え去った。会話の続行や中断を、自分の意志できめかねる病人であることに満足することにしよう。
それにしても、イワンには貯金はなかったであろう。遺産の分前があったか、なかったか、それは断定しにくい。彼にとっては、「精神の貯金」の方が、金銭の貯金より重大問題だったにちがいない。しかし「精神の貯金」だって、精神界のインフレ状態のおかげで、泡の如く消え去ることもあり得るのである。

…泰淳の、自在で取り止めのない、思考の飛躍と言葉の増殖に軽い目まいを感じつつ雨の公演通りを歩きながら、尾崎豊の『ドーナツショップ』という曲を思い出した。