と、思わずリキんでしまったけれども、

一方でこういう憧れもある。ちょっと引用長くなるんだが…

「たべものの恨みは恐ろしいぞお」と、女房は、誰かをおどかすようにいう。戦後、闇のお菓子を、闇市の屋台で売りさばいていたころ、取り締まりの警官にしばしば襲われた。菓子の中身をわって、小豆を使用していないか、どうかを、取り調べられた。わられた品物は売り物にならなかった。
(中略)
政府としては、闇市の取り締まりは、緊急欠くべからざることであっただろうが、彼女には、鬼姫の恨みと怒りだけが刻みつけられた。政府の総理は、キリスト教社会主義の温厚な政治家にすぎなかった。総理は、まもなく引退して、片瀬のあたりに住んでいた。女房が(私も一緒だが)江ノ島へ引越してからも、江ノ島電鉄を利用する元首相の姿を、彼女はみかけた。附近の住人も、駅員も、その元首相を敬愛しているらしかったが、彼女は「あんな奴。清貧なんぞ、あたしは大ッ嫌いだぞ」と、自分一人で呪っていた。私も江の電の駅で、ずんぐりむっくりした、淋しそうな姿を眺めて「女房の嫌うほど、悪人らしくも見えないなあ。悪人なら、もっとうまく警官を使っただろう。そして、巷にひそむ闇商売の女たちの恨みを買うこともしなかったろう」と、考えつつも、女房には話さなかった。

したがって、元総理につながる革新政党まで、ついでに嫌われてしまったのである。テレビの政治討論会などで、革新政党が何か主張するたびに、手に口をあてて、笑い声をたてずに嘲笑うのである。しかし、私のみるところ、保守政党に対しても嘲笑っているらしいのである。「あんな顔して笑っているけれど、どうせ悪人にきまっている。悪人だから、えらくなれたんだ」と、テレビ画面の大臣などを批評する。「担当の新聞記者が行くと、一升びんの中に千円をつめこんで、これを持ってゆきたまえ、などというにきまってる。選挙の前になると、約束の橋のたもとに、お札を封筒に入れて棄てておいて、約束の人がその封筒を拾うようになっているんだ。ちゃんと知っているんだ。あたしは」と、自信ありげにつぶやいている。まったく、彼女に思い込まれたら、百年目であった。清貧のやつは元気がないし、元気のいい奴は、悪い奴にきまっているわけで、それでも彼女は平気らしかった。

武田泰淳『目まいのする散歩』より、「鬼姫の散歩」

この「考えつつも、女房には話さなかった」、「それでも彼女は平気らしかった」というそれぞれのオチが、なんとも言えずイイ。
バランス抜群の生身の直感力で、ズバズバと奔放、率直に生きる百合子さんの「みもふたも無さ」を、「なんだかなあ」と苦笑しながら受け入れている泰淳。百合子さんのクールさは、ともすれば「無関心スレスレ」にも見えるけれど、彼女も、生真面目で、もの思いに際限が無く、ちょっと浮世離れ気味だが、同時にどこか茫洋としてフェアな人の良さのある泰淳を愛し、感謝しつつ受け入れている。
この2人の組み合わせが、結果として、フラットに心に留めている人間の幅の広さを生んでいるというのか、さっき百合子さんについて「無関心スレスレ」と書いたけれど、泰淳といることによって、それが却って自分も含めた人のどうしようもなさを許し、許容するしたたかさに繋がっている。


マガジンハウスの新雑誌「クウネル」http://kunel.magazine.co.jp/でも、花さんのインタビューと共に『富士日記』が紹介されているのだが(見たことのない、百合子さんのカラー写真が多数掲載されていて嬉しい。特に1ページ目の泰淳との愛情溢れた2ショットはグーだったなあ)、ともすれば、以前に曽我部恵一のアルバムレビューhttp://www.axcx.com/~sato/senbikiya/j-pop/sogabe01.htmlでもふれたような「鼻持ちならなさ」を纏いがちなこのテの雑誌の読者にも、このあたりのニュアンスがうまく伝わればな、と思った。


なんてことを考えつつ、吉祥寺へフライヤー配付がてら出かけたついでに立ち寄ったよみた屋にて、武田泰淳『新・東海道五十三次』(中公文庫)を発見!即ゲット。
久々に、ゆったりと没入する読書がしたいなあ…