ここにきて夏らしい(!?)日差しの快晴が続いているので、

昨日は中野方面を散歩。

ブロードウェイをひとめぐりした後、東急ストア一階に出来たあおい書店へ。フロア面積にものを言わせ、雑誌のBNなども充実していて楽しい。あっという間に時間が経つ。「考える人」の坪内祐三氏の連載、ずっと読みたかった田中小実昌の回が読めて嬉しかった(あと、今月号の「諸君」の68年論も面白かった)。コミさんの、相手との仲間意識によって距離や態度を変えることの無い「個」の強さを怖いと書く坪内氏、なかなか正直で好感。彼、自分でも書いていたけど人一倍、相手の顔色の変化や場の空気に敏感なタイプっぽいもんなあ。
愛読者には言わずもがななことだけれども、このあたりのコミさんの「脱世間」的な潔癖さの根には、(極めて真剣で潔癖すぎたために異端となった)キリスト者の親父さんの影響が大きい(そう言えば、阿部謹也もクリスチャンだ)。もっと言えば、「神」という絶対的な他者を信仰することによって、常に自我を解体し続けているような父の生き方がコミさんに影を落とし、徹底して潔癖な認識を自らに課す(それによって逆に人の根本的なイイカゲンさ、不完全さを骨身にしみさせているような)本質的なところで哲学的なコミさんの生き方を決定付けた。
俺も坪内氏どころでなく、実力の伴わない自尊心ゆえに、世間になんとなく共有されている「空気」や「イメージ」といいかげんに馴れ合うことで自分を守り、格好付けたり取り繕ったりしながらハッタリで処世しているようなところ大な、恥ずかしい誤魔化しの多い人間であるので、こういう他におもねらない真の実力者の目は本当にコワイ。
また、人の顔色に敏感な人というのは、「目の前の人にとって」いい人でいようとする。けれどそれは別の立場の人にとっていい人であるかどうかはわからない。自己都合を曖昧に誤魔化して「いい人」やってると曖昧に自他に思わせてしまうことは、実は無意識を装いながらその場その場で通りの良い方へとおもねる、ズルさだったりする面がある。
そう、例えば「仕方がない」という一般論に隠れることで、その中で利得を得ている自己都合を誤魔化すようなことは、誰しも心当たりがあるはずだ。
よく、「場の空気が読めない」とか「嫌われている」ということが、決定的な人格批判の言葉として使われるけれど、己のそんな一面を意識することなく、こうした言葉を使うことの一抹の恥ずかしさをまったく感じないでいられる人を、だから俺はちょっと軽蔑する。

中森明夫氏が、「噂の真相」連載のコラムで、矢沢あい紡木たくについて触れているのも、大変興味深く読んだ。ただ今回は、まったく同じものに触れていても、その時いた場所やメンタリティの違いによって、受け取る意味が全く逆になったりするもんだな、という感慨が大きかった。
少女マンガという「安全なフィクション」の分水量を超えて、不安定で等身大の現実と葛藤を、体感的にリアルに描いた紡木たく。そこの認識は同じなのだけれど、すべてが商品に還元されてしまうような、欲望の解放によってモラルや安定感が失われた世界に、生身で果敢に突き進んでいく少女を、ひたすら肯定的に賛美する中森に、俺はちょっと違和感を感じる。そう生きざるを得ない、選べない現実というのは、程度の違いはあれ事実だと思うけれど、紡木たくには、それを誇ったり賛美するようなところは微塵も無い。「わからない」まま感情を揺さぶられ、渦中の中を右往左往する自分を恥じ、悲しんでいるようなところさえある。中森の言い方だと、例えば紡木たく岡崎京子も、十羽ひとからげで同じってことになってしまうじゃないか。
「そうならざるをえない」というのは事実だとしても、それをどう感じているかという個々の生理や背景はいろいろだ。紡木には、「そうならざるを得ない」自分達の現実、それを敏感に体感しているセンシティブさを誇りながら、同時に「だからこそこの辛さは自分達にしか分からない」と特化し、かといって敢えてそこから降りてまで自分達の閉塞を破ろうとなど決してしない岡崎にまま見られるようなずうずうしさは、まったく無い(逆に、そうだったからこそ、表現者として次の時代のリアリティに対応できなかったわけだが)。中森は、少女達が半分は「好き好んで」そう生きているという事実、彼女たち自体の責任や否定面に、「切なさ」と「アナーキー」さを美的に賛美したい自分の性向に合致するゆえに、故意に目を瞑っているところがあると思う。そして、彼女たちを賛美することで、世の混乱や不安を煽り、手傷を負わせようとしているところがあるんじゃないだろうか、とも。俺は、いたずらな欲望全肯定の空気や混乱の中で煽られ、うまく受け身を取れず、真っ先に傷つき、割食う人間が誰か? ということを考えると、反発を感じざるをえないところがあるのだ。

ただ、逆に中森の側から見れば、快楽のアナーキーさに耐えられないこちらこそ、さっさと優しさや安定や倫理的な潔癖さに逃げ込んでいるということになるんだと思う。彼は、安全圏から言う「正論」の類が大嫌いで、なんとかそういう連中を撒き込み、揺さ振り、傷を負わせたいと思っているのだろう。坂口安吾堕落論的に言えば、俺から見れば彼はどこまでいっても「限度の発見」をしようとせず、いたずらになしくずしの堕落を賛美しているように見え、彼から見ればこちらが、身を持って堕落に耐え切ろうとしない、スケールの小さい臆病者に見えるのだろう。ここでこだわっているポイントの違いというのは、それぞれの望みや根本的な性向、そして代弁したい立場の違いに根差しているから、いたしかたないところだとも思う。

で、こういうふうにぶつかりながらも、俺は実のところ中森にほとんど悪感情が無い。偽悪ぶってはいるけれど、安全圏からのカマトト的な発言は絶対にしない、という姿勢に、こだわりと気骨を感じるからだ。だからある意味、自分に生理的に欠けている部分を、補完してくれているような頼もしさを感じながら、この連載コラムを読んでいるところもある。
そして、同じ時期に紡木たくについての原稿を書いたことから、あの時代に彼女が体現していたある種の緊張感とリアリティ(そして、それゆえの生身の優しさ)が、(今、ぽっかりと欠けているからこそ)必要とされているという機運を再確認し、正直ちょっと盛り上がってしまった。

結局この「噂の真相」と、佐藤嘉尚『「面白半分」の作家たち」(集英社新書)を購入し、帰宅。