本当に遅れ馳せながらだけど、DVDの発売に合わせてようやく観た。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/250-8466166-7955438

マイケル・ムーアって人の根性と、タフなバイタリティには本当に感服。
こうした、ジャーナリストタイプの人(特にアメリカの)によく見られる傾向だけど、彼も根本のところで性善説的というのか、ヒューマニズムを信じている。人間を本来いいものだと信じている。だからこそ、現状の在り方が許せないし、激しく怒る。

ただ、こういう姿勢は時折、人間性の半分を見えなく(見なく)させてしまいがちでもある。例えば、ここでは無力で無垢な被害者として捉えられ、描かれている人達もまた、隙あらば勝ち組みの方に乗りたい、その為には現在の自分達の立場を裏切ることもあるだろうし、裏切っていることを自覚したくないために、「裏切ること」の方が弱い人間の常である、という保身的なシニシズムが共有されがちだったりするのもまた、人間のリアリティであったりすることとか。けれど、そうしたことに目が向かない、あるいは、気付いていたとしても、それに過度にこだわって足を取られたりしない、覚悟の座った確信犯のヒューマニストぶりがムーアの才能であり、魅力であることはよくわかる。「信じている」からこそ、あそこまで徹底できるし突っ走れる。

この映画、素晴らしくリズム感のある演出で、重いテーマなのに凄く面白く観れる。「正義」の旗印に甘えない芸人魂、映画人魂には本当に敬服。カッコイイ。(アメリカの銃の歴史をアニメ仕立てにしたシーンの、スゴイ情報量と要点整理能力、そしてビートの効いた編集は圧巻の一言!)
だけど一方で、こんなにスピーディでわかりやすくフックを利かせて要点を見せてくれるからこそ、一見の受け手としては、どうしても「旗印」や「スローガン」を受け取ってしまうことになる。そして、そのスローガンで軽々しく、快楽的に正義を手にして屈託無いだろう、日本の若い衆の顔などを思い浮かべたりすると、どうにも暗い気分になったりしてフクザツでもある。
けれど、そうした受容にこだわらず、確信犯でエンタメし、世論を誘導するために全力を注ぐから、当面の問題を顕在化させ、それに対処できることは事実だし、それはすごく大切な役割だとも思う。逆に、人間性を穏当な諦めを持って受け入れている人は、こうした行動力や突進力を持てないものだ。そして、そうした穏当なシニシズムは、だから何もしなくて良い=何もしない方が良い、という自己保身の正当化と、とても相性のいい部分がある(さらに言えば、自分の視界の狭さへの謙虚さを忘れさせ、俺はわかっている、だから馬鹿な勘違いはしない、という鼻持ちなら無い過信へと行き着きがちなところも)。たけしやナンシー関の「ってんじゃねえよ!」的な本音、シニシズムの笑いが、日本人と相性がよく、安全に受け入れられているのも、その辺が大きいように思う。

俺自身も最近では、後者の傾向が強くなってきているように自分で思う。けれど、世の中に積極的に向き合い、コミットするバイタリティを失い、穏当に「人間とはそんなもの」という本質論によってひとりごちること、これはこれでアンバランスで浅はかなことになりやすいとも思う。具体的な現実、現場に触れ、深入りするからこそ、自分が無意識に抱えてしまっている図式的で単純な物の見方や認識に、亀裂が入ることになる。この映画でも、(アメリカに比較して)カナダは銃社会ではない、という予断によって取材していたところ、そうではない現実に触れることで、銃社会の是非から、大衆を煽り脅して購買意欲を維持しようとする情報消費社会の問題点へと、逆に視点が深まって行くくだりが、見ていて一番面白かった。

無闇に何でも知り、触れなければならないと思いつめたり(そのことで却って自分自身の立場を直視し受け入れるというリアリティの前提を失ってしまったり)、他人に強迫的になったりするのはどうかと思うけれど、そうした混乱や痛みを抱え続け、自分が寄っている立場を確認し、(その限界や否定面も含めて正当化することなく)自覚的に引き受けることも、放っておくと自己完結した保身やエゴイズムに閉じてしまいがちな人間としては、大切なことだと思った。しかし、無理して向き合って、キャパシティを越えると全部にうんざりしてしまい…ということを繰り返しがちな虚弱な根性無しとしては、無闇な背伸びや生兵法も禁物なのだけど。