「白線流し 二十五歳」を見た。

http://www.fujitv.co.jp/hakusen/index2.html
90年代中盤以降の「北の国から」にも顕著な傾向だったけれど、夢やロマン、あるいは、かつてあった確かなもの、美しいものの側から現在を照射する、という感じが消えて、現実を受け入れながらなんとか生きて行くそれぞれ、ひとりひとりへの緩やかな共感、というテイストが前に出ていた。

それも、かつてのように、極端な理想を抱いた(というか、作り手や時代の気分によって背負わされた)登場人物達が、絵に描いたような挫折を味わい、また乗り越え成長する、といったドラマツルギーが消え、むしろずるずると済し崩しのように生きてしまう、あらゆるものは過ぎ、流れて行く、という無常感に、記憶をわずかな絆の手がかりにしながら耐え、受け入れて行くという空気が色濃い。(そのあたりのディティールは、「北の国から」以上に唐突だったし、図式的でもあるのだれど、その説明不足で、ちぐはぐで、唐突で、ちょっとうら寂しい感じにも、不思議と「現在」のリアリティのようなものを感じることも同様だった)
自他を穏当に直視し、受け入れること。そこから生ずる優しさと諦念… この手のドラマにありがちだった、人間や社会を上滑りに図式化した感じに苛立つたびに、求めてやまなかったものだったはずなのに、どこかに「何かが違う」という感情が残る。本当に苛立ったり、抗ったりした後に噛み締める諦念や共感ならいいんだが、どこかそこの決着がうやむやのまま、ここにきていきなり手のひらを返されたような気持ちが残る。

上り調子の社会、変化の中で起こる古いものと新しいものの間で揺れる人達の葛藤、という青春のドラマの定番は過去になったのだな、との思いをここでも繰り返し感じた。95年の「白線流し」自体が、中流普通科高校生が抱える曖昧な葛藤を、定時制高校生の現実との出会いによって相対化し、また浮き彫りにするという、あらかじめ耳年増になってしまっているような時代の状況に、そうした「青春」の緊張感と輝きを(いささか図式的ながら)再度ぶつけてみようとの意図を持ったドラマだったわけだが。
この時、お互いの生身の現実と、その距離を知ることで、自分の現実に亀裂を入れ、互いの現実を変えようとした2人は、今それぞれの現実へと帰還し、これまでの過程を肯定した上で(肯定することで)現実を受け入れ、立向かう力を得ている。描き方としては、穏当だし、誠実だと思う。

ただ、俺は、現代に適応しきれていない古い人間なのかもしれないが、「変わらずに続いて行くもの」や「築き上げて行くもの」、「確かなもの」が欲しいという気持ちを、捨てることが出来ない。
このあたり、若い世代が見て、どう感じているのだろうか? 興味があるところ。

俺は、厄介でも、重くても、どこかに確かなものがあって欲しいと思う。
「なしくずし」「ずるずる」というのが耐え難い。
というか、誰が何を望んだ結果として現状があり、それを自分達はどう受け止めているのか、という脈絡が欲しい。

いや、そういう大袈裟なことよりも、どうせフィクションならば、戯画化(あるいは理想化)されたキャラクターによって現実をなぞったドラマよりも、リアルなキャラクターの些細な現実の中に、敢えて小さな抗いや波立ちを描き、そこにロマンが生まれたり個々の(普段は隠れがちな)姿勢が試されたり、露になったりする、そういうものを俺は見たいなってことかもしれない。
どうしたって生きることはしんどいことなのならば、心に灯が灯る瞬間というか、ちょっとしたモチベーションが欲しいじゃないか。(というか、なんだかんだ言って、主人公の2人にはちゃんとくっついて欲しかったし、渉には天文台で働く夢を適えて欲しかったってだけかもしれんが(爆) ああー、「まんが道」でも読もう!)