ただの雑記

高円寺、下北沢と、ロックや芝居を志す「贅沢貧乏」な若者達が数多く暮らす町に、気が付けば10年以上住んでいる。趣味だか仕事だか境目が判然としない仕事をしながらプラプラしてる平日昼間の男としては、人目に煩わされることがないのが気楽だし、とにかく大抵の買い物は近場で済んでしまう(しかも、時間を気にする必要さえない)のが便利で、この緩さに体が慣れてしまうとちょっと離れがたい。
だから、これから書くことは正真正銘の贅沢でしかないんだが、それでも個人的には結構深刻に不都合を感じていることがある。ちょっと気持ちが疲れたり、ささくれ立ったりしている時、気楽に出かけて飯食って来られるような店がない。


旨い飯屋ならいくらでもあるんだけど、高い。ちょっと財布に響くような値段だと、期待を上回った驚きでもないと、貧乏性のせいで却ってストレスが残ってしまう。
かといって、頑張りすぎて個性がありすぎても疲れる。単純に若者向けの店が多いということもあるんだが、いわゆるカフェ的な場所は店も客も主張が強すぎて、疲れている時には鬱陶しい。
ことさらに自己主張することもなく、けれど淡々と普通に旨い、そういう店が欲しい。
いや、そういう店も無くはなくて、下北の庶民性を主張したい向きからはやたらと推薦されたりしてるんだけど、実際に行ってみると、他の町のちょっと旨いってレベルの定食屋にも、残念ながら達してないことが多い。
個人的には池ノ上駅前の「まんぷく」という魚料理中心の店は、ご主人が毎朝築地で仕入れてるだけあって、安くて旨いんだけど、何となく経営が傾いてきてるような寂しさがあって、気持ちが沈んでるとちょっと苦しくなったりもする。


本当に、普通に旨くて普通の値段、そして、何年も前から変わらずそこにあって普通の人たちが飯を食い、これからもずっとそこにあり続けるんだろうなって店が欲しいんだけど、考えてみると今はそれこそが最高の贅沢なんだろうな...
俺が言ってるのは要するに、地代が高くて、何を食っても適正価格よりちょっと高めになってしまうような町に住んでる人間がほざいてる能書きにすぎないんだろうと思う。
でも、何となく行く店がなくてブラブラした揚げ句、駅の立ち食い蕎麦ばっかり食っちゃってるのも事実なんだよね。


色川武大が、鈴木清順のエッセイ集『まちづくし』に寄せた書評に、こんな一節があって印象に残っている。

私も東京生まれで、他人から、なんとなく東京者の記す小説だ、といわれたりすることがある。それでこうして他の人が自分の街をイメージ化している文章を読むと、何かひとつ、同調できないものが湧いてくる。それは何だろうか。
東京だろうとどこの町だろうと同じことだが、自分が生まれ育った、自分に一番近しい町というものは、理由など超越して、ひどくはずかしい。東京下町なら東京下町に生まれたことがはずかしくてたまらぬ気持とがごったになっていないと、広範囲の説得力をうまないように思う。文中二三箇所に太宰治の名が出てくるが、太宰に有って、この本にややうすいのはその点ではなかろうか。

自分は地方出身だけど、地元の顔みたいな様子でご当地ソングとか作って歌って、飲み屋に群れてるようなバンドとか、ちょっと苦手だったもんなあ。
下北の再開発には、俺も俺の都合と好みで反対なんだけど、セイブ・ザ・下北沢関係で発言してる文化人たちとかみてると、高級住宅街の住人が「環境が悪くなるからそういうものは作らないで!」って、さも当然のように既得権を振りかざしてるのと、あまり変わらないように思えちゃうんだよな...