『すいか』と『祭ばやしが聞こえる』

bakuhatugoro2006-07-29



mixiでまっちゃんやまさかり君が薦めてくれた「すいか」を、遅まきながら僕も録画して観てみたんだけど...
正直、生活やディティール抜きのところで「気の持ちよう」だけを言ってるようで、僕にはまったくリアリティが感じられなかった。例えそれが「日常」の再発見をメッセージしていたとしても、やはりそれが日常のディティールや時間の積み重ね抜きでは(しかも三茶のレトロなアパートで緑とアンティーク家具に囲まれて暮らす文系ねえちゃん&おばちゃんの話を「普通」と言われても)、こちらには何の参考にもならない。
カスミ食って生きてるわけじゃないんだからさ。
むしろ「現実」と「憧れ」を、(半ば故意に)曖昧にし、混同している「非日常」に見える。



繰り返すけど、「スロー」な日常感覚をことさら持ち上げることに反発しているわけじゃない。
敢えてこれに対置するけれど、昔ショーケン主演の「祭ばやしが聞こえる」という「スロー」なドラマがあった。
ある意味「傷だらけの天使」の後日譚的にも見えるところのある話なんだけど、地元に居づらくなって職を転々としていた青年が、競輪にはじめて自分の才能と生きがいを見い出す。ところが突然の落車事故。
それで、先輩のロートル選手である山崎努に連れられて、彼の実家の富士吉田のひなびた(というより寂れた)温泉宿に湯治にやってくる。そこに、山崎努の妹の石田あゆみが働いている。彼女は性格が大人しくて体が弱く、ずっと婚期を逃している。
不器用な人間同士、ショーケンと石田あゆみは自然に惹かれ合い、ショーケンは彼女との生活の為にもと奮起してレースに復帰。ただ、彼女はいつか彼が東京に戻ってしまうのではないかとの不安をどこかで抱いている。
順調に復帰したかに見えたショーケンだが、今度は相手を落車させてしまう事故を起こし、結局相手は再起不能になってしまう。事故の責任はショーケン側には無かったけれど、彼はそのショックで肝心な競り合いの場面で本気を出せなくなってしまい、全く勝てなくなる。
同時に、旅館を切り盛りしていた石田あゆみの年老いた母親が死ぬ。石田あゆみも妊娠していたことが分かる。
ショーケンは、競輪の引退を決心。富士吉田で親しくなった室田日出男が親分をやってるテキヤの組に入って働くようになるが、この組も徐々に傾き借金で首が回らなくなっていく。
ショーケンは室田に肩入れして借金の一部を肩代わりしてしまったり、一時運送業に切り替えた室田を手伝って働いたりするが、それによって地元の零細業者を脅かしてしまう現実を見たりもする。どうしても現実のマイナーなところにばかり目が行ってしまう彼の生活は、なかなか好転しない。そうしているうちに、旅館を懸命に支えていた石田が過労で倒れ、同時に故郷の両親の貧困と老いを意識させられるエピソードも起こる。
こうした状況を背負い、また潜り抜けることによって、風来坊だったショーケンは守るべき者を持ち、同時に自分は結局自分にできることを精一杯やるしかないという無言の自覚にいたる。そして、競輪復帰を決意する。
しかし、彼はなかなかレースに勝てず、未来はわからない...



これ、70年代末のドラマなんだけど、今観ても怖ろしくリアルだ。
つい先日観てきた地方の状況や、(これは蛇足だけど)現在東京で自由業やってる自分の状況とそのまま被ってしまう。
ただ、物語だけ書くとひたすらしんどく見えるけれど、実際のこのドラマは、工藤栄一をはじめとする映像派の監督達が、富士吉田の自然や生活風景を背景に、物語説明は最小限に、描写の積み重ねで見せていくとても「スロー」な作風(このあたりも、スラップスティックな小芝居に観念的な説教が挟まれる「すいか」と真逆。しかし先日DVDで見た『メゾン・ド・ヒミコ』といい、最近はこういうのが本当に多いなァ...)。ニュアンスや佇まいで見せる、話法が殆ど「映画」といっていいくらいだった。
だから当時のお茶の間では視聴率もふるわず、「名作」として記憶されているわけではない、むしろ埋もれていたドラマだった。けれど誰もが水面下の宿題をなし崩しにしながら苦しく浮遊しているような今こそ、逆に凄く生々しく、かつ新鮮に受け止められるドラマじゃないかとも思う。


関連エントリ
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20070427