たけしとジブリ


>彼のまとっている「リアルな貧しさ」が、当時の自分にとってはあまりにも日常の風景でありすぎたからだ。http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20060217



以下は、『HANA-BI』のベネチア受賞の便乗企画で出た『コマネチ!』に中野翠が寄せている一文、『やっぱりなんだか、変な人 テレビの中のたけし論』より。

「何と言っても、たけしを中心にタレントがゾロっと居並ぶ、あの絵面が厭だった。あのグチャーッ、モアーッ、デレーッ、とした空気(なあんて。他にもっとプロっぽく気の利いた形容はできないものだろうか)がたまらない。特に『元気が出るテレビ』の、お揃いのトレーナーを着こんで「社長」、「部長」と呼び合う、あの同族会社感というかファミリー感になじめなかった。」
「昔ながらの質実な美意識やモラルも失ない、フワーッと浮き足立って、メディアの祭りに乗せられている人びと。つねに「殿」「親分」「ボス」を求めずにはいられない従順さや、原色の「お茶目」なぬいぐるみやインテリアグッズの似合わなさ...。」
「お笑い界のトップに立ったたけしは、やがてイッセイ・ミヤケをはじめ国内一流デザイナーの派手柄ニットなどを着るようになる。私はあの手の”個性的”で”斬新なデザイン”のニットというのが嫌いで、日本人の顔の地味さを強調するだけで、絶対に損だと思っているのだが。」


これって、典型的にこまっしゃくれ文系の負け惜しみ陰口だよな、と思う。
体育会系の縦社会を、安全圏から一匹狼気取って馬鹿にしてみたり、ヤンキーのファンシー好きを笑ってみたり。
それで、かつての質実な庶民だの落語だのに擦り寄りながら、オタクの同族同士でうなずきあってるんだから世話ねえや。
現在溢れかえってる、こういう落語だの小林信彦だの持ち出して、安全なところから一歩も出ないしたり顔のガキの方が、俺はよっぽど気にいらないけどな。


それで、今でも往生際悪く、かぶりものとかしてテレビに出てくるたけしを「不条理な、変な人」とか言ってるんだから、能天気なもんだ。そりゃ、あんたが自分の日常に暴力が介在しない女で、しかも生な世間から守られた「アッパーミドル」のお嬢に過ぎず、そのことを照れることさえ無い無神経から来ているのだから。
ま、爆笑問題とかを屈託無く評価している中野さんには、そんな不快感は欠片も理解できないだろうね。


確かに、たけしの企画した番組には、どれも場末のスナックみたいな貧乏臭さが漂ってたのは中坊の俺にもわかった。
特にそれが露骨だったのは「元テレ」よりも「スーパージョッキー」。休日も半ば過ぎた日曜午後のけだるい時間、熱湯コマーシャルはじめ、イジメまがいの引きつった笑いが薄く飽和した、しらっちゃけた空気(たけしの映画には今だって、運動部の後輩みたいな「引きつった笑い」が、男女問わず溢れかえっている。これは意図してというより、どうしてもそういう表情を彼が選んじゃうんだろうなって気がする)。
しかし、彼の凄みと大衆性は、そうしたリアルな貧しさと、当時は不可分なものだったと俺は思う。
あの高級ニットと、テラテラ酒焼け、ゴルフ焼けしたようなツラというのは、俺には竜二以降の80年代ニューヤクザ路線の印象とモロにかぶる。それは、当時の俺にはセピア色した70年代東映以上に、生な恐さを感じさせた。
俺もはやく、ああいうイイ顔したオヤジになりたいもんだ。



しかし、少なくとも当時は、こういう「恐い世間」というのは、最終的に絶対なくならないだろうと思ってたんだが、10数年経ってみると、随分予想と違ってしまった感が否めない。
80年代末、たけしが映画に手を出すのとほぼ同時に、宮崎駿スタジオジブリの映画がブレイクした。
たけしと宮崎駿、共に映画に限らない、8、90年代を代表する国民的ヒーローと言っていいだろう。


当時の俺の感覚としては、『コナン』や『カリオストロの城』は大好きだったけど、一方にどこか女々しくって優等生的で、要するに「いい大人が観るものじゃないだろ?」的な気恥ずかしさと軽い反発がジブリにはあったし、大ヒットはしていても、半数くらいの人間は確実に、そうした醒めた感想を持っていたはずだ。
『トトロ』なんて、都会の人間から観た、いい気で無責任な田舎幻想以外のなにものでもなかったから、当時の評論家筋の異常な大絶賛がキモチワルかった。


突き詰めれば、「日本人」で「男」やってることを、どこかでタブー視し、それだけで悪だとでも言いたげな宮崎駿と、たけし的なものは、ある時期までは激しく衝突するものだった(本当は、今だってそうなのだが、時を経てどちらも「生もの」でなくなり、またそうした現実に引き付けた表現の受け取り方が、いつの頃からか「ナシ」ってことになってしまった)。


ところが、ジブリ一色になったアニメで育った世代が思春期を迎え、トトロを観た親がビデオで子育てするようになる頃から、そうした反発の空気が、世の中からすっかり消えてしまったようだ。これは、俺には本当に予想外のことだった。
一方、たけしの映画は、何だか「映画は観ていないがハスミシゲヒコの本は読んでる」みたいな映画ファンはじめ、お芸術として「勉強する」ものって具合の安全なマニアックさに収まってしまったが、斜に構えた「本音」や「ツッコミ」を基本に置く芸=生き方の一般化というのは、明らかにたけしからはじまって、その後完全に世の中の「ベーシック」になった。


そしてどうなったか。
たけしの背後にあった「リアルな世間」が失われると共に、みんな自分のことを「どうとでも思える」ようになった。ジブリ的な薄っぺらい人間観を持った連中が、何の矛盾も感じずツッコミや言い訳に自己完結し、それは恥ずかしげもなくまかり通っている。


勿論、貧困や暴力が消えたわけじゃない。
ただ、「見たくないものは見なくてすむ」状況が当たり前になり、それを誰もが「何が悪い」と思うようにまでなったってことだ。
大衆というのは、基本的に状況やメディアに受け身なものだが、今はメディアに携わる人間も、「自分が見たいもの」か、商売と割り切って「金になる」ものしか流さない。
鬱陶しい世間が消えると共に、異質なものとの共生の為の倫理も消えてしまったのだ。


ああ〜、また暗い話書いちまったよ...
お笑いウルトラクイズ」のDVDが欲しいな。

ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!DVD-BOX

ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!DVD-BOX