亀和田武への好感と疑問

bakuhatugoro2005-04-22



朝日の書評欄でもう一年くらい(もっとだっけ?)連載してる亀和田武の「マガジンウォッチ」を愛読している。
今回も『anan』恒例<好きな男・嫌いな男>の12年連続木村拓哉が一位という結果を槍玉に挙げての、「”なんとなく”そして”他に代わる人がいない”という理由」による「よどんだ水面のような代わりばえのなさ」といったレトリックに膝を打った。
さらに、「テレビブロス」の同企画で、24位に入った大森南朋についた「さすが麿赤ジの息子、みたいな」というコメントを鋭く取りあげ、「ひねくれ者のブロスでも、こんなあからさまな二世志向があるとは」と、価値相対主義者の無自覚ズルズルの保守化と退廃を鋭く突く。
俺自身は、向島の話の時にも少し書いたけれど、「階級落差」そのものに必ずしも反対じゃないけれど(むしろ、それが曖昧に覆い隠されて、それぞれが自分の属する階級、育ちや帰し方を自覚し、誇りをもてなくなって、ずるずると「上」のイメージに引きずられたり媚びたりしてる状況、だから横の連帯や権利主張も崩壊しちゃってるような今の状態の方がずっと問題だと思う)、亀和田のベビーブーマー的なメンタリティをダンディズムへと昇華し、持ち続けている姿勢には好感を持った。


しかし一方で疑問も残る。
確かどこかで書いてた金井美恵子『目白雑録』の書評で、誰の目にも悪辣な反動であることが明らかな石原慎太郎西尾幹二(このあたりの安易な断言には、逆に団塊特有の「緊張感の無さ」を感じるナ...)への揶揄に対してはすぐに後乗り書評が出るのに、保坂和志橋本治の「ニブさ」への指摘に対しては、どうして誰も反応しないのか?と挑発していたけれど、それに習って言えば、あなたは金井さんやご自身の「鋭さ」や「隙のなさ」に大きな価値を置く姿勢の問題点と限界に関しては、ちゃんと掘り下げて考えたことはあるのかと聞いてみたい。
キムタクの勘違いを揶揄するような「サブカル」ほど、今ヌルさと退廃を感じさせるものも無いと俺は思うし、逆に言えば、キムタクのような人まで半端に「小ざかしく」ならなきゃならないような世相変化ならむしろノーサンキュー。
純情、素朴なニーチャンが煽られ、「甲斐」が信じられなくなるような(また、その反動で、極端に観念化して薄っぺらくなったり...)状況に対しての「ツッコミ」や「苛立ち」を前提としないまま、個々のニブさを論うだけでは、結局セコい「俺は分かってる」自慢に終わってしまうばかりか、「ブロス」的な退廃した2流スノッブの群れを生んで終わり、ってことになりはしないだろうか。
ま、本来亀和田武に期待するようなことじゃないんだけど、ここまで世の中がずるずるのエクスキューズだらけになっちゃうと、なんともなあ...