遅ればせながら『西部警察』

bakuhatugoro2004-11-04

う〜ん... 感想が非常にムズカシイ。
例えば、まずVの妙に明るくドギツくも薄っぺらい画面にどうにも抵抗があるんだが、逆にフィルムの暗い画面だと「ファミリー枠」のノリじゃなくなっちゃうよな、とも思う。
ワザと画面の粒子をアラくしたりすると、今度は妙にサブカル臭くなってしまうだろうし。


最大の個性であるところの「荒唐無稽な爽快感」も、意識的すぎると「敢えて」ってところがパロディ的な臭みになって、チマチマした印象を生んでしまうだろう。


仕掛けの大がかりさに比しての、ストーリーの薄さ、アクションのユルさというのも、こうしたドラマの本当の「核」は、実は間口の広さと安心感なので、それ自体は構わないんだが...


最近、たまたま笠原和夫脚本、山下耕作監督の『総長賭博』を観返していて、各キャラクターが余りにもストイックな任侠の「額面」を演じていることに、いろんな意味で感慨があった。
10年ほど前、まとめて任侠路線を観まくったことがあるんだが、正直言ってその時は退屈で、一作一作の印象がほとんど残っていない。中ではこの作品は、ルーチンの中で形骸化して緊張感とインパクトを失った「任侠」に対するアンチテーゼとして作られ、三島由紀夫に絶賛されてやくざ映画の一般的評価のきっかけになった一作で、それが同時に任侠映画の終わりを象徴してもいたのだが、だからこそ逆に「任侠」の厳しさとそれが成立しない哀感の際立った「挽歌」ともなっている。
しかしそれでも尚、むしろその後の実録路線の方によく親しんでいる我々としては、画面もドラマも芝居も様式的で安定感がありすぎ、正直ちょっとかったるい。


が、今回の『西部警察』を観ていて結局いちばん引っかかったのは、『総長賭博』を観ながらあらためて意識したこの「額面」が、まったく前提として忘れ去られていることによる不安定さ、と言うことに尽きる。


もともと『西部警察』は、笠原脚本とはある種真逆の、子供が爆竹でミニカーを吹っ飛ばすようなことを大人が本物でやってるような、ドラマツルギー無視の過剰で空虚なドラマだ。
しかし、荒唐無稽だからこそ、骨組みの「額面」だけがギリギリドラマとしての体裁と安定を支えていたとも言える。
例えば、刑事が肉親をテロリスト集団の人質に取られた場合、刑事はいったいどういうリアクションを取ればリアリティがあるのか?
ここで、「人間の本音」といったものを詮索、追求することには、あまり意味がない。
当人が悲しみや葛藤に苛まれるだろうことは当然だし、では取り乱すことがリアルなのかというと、「それで刑事か?」ともやはり思う。
だからこうした場合、まず「刑事たるもの」という額面が確固としてあり、それを前提とした上で水面下の葛藤を匂わせるなり、あるいはそれを表に出さないことで、彼の常人離れした強靭さを表現するとか、「額面」に反射させることによって、それぞれの個性を描いていくべきものだろう。
今回の場合、製作者にも、視聴者にも、例え建前であってもその「額面」が共有されていない為に、リアリティを考えた時にただ迷うしかなくなり、単に表面的にリキんだような曖昧な芝居と演出でお茶を濁すしかなくなっていた(特に、軍団の紅一点を演じた戸田菜穂が典型で、しかも、もともとの彼女の佇まいが、今ではもっとも寄る辺なく見えてしまうところの「フツウ」の女そのもので、リキんだ空回りがかえって不安定さを浮き彫りにして痛々しく、また煩かった)。
日常的なやりとりの範囲の、どっちでもいいような本音ならともかく、こうした極端で大きなドラマツルギーを、陰惨でも退屈でもなくエンタテイメントとして成立させる為には、これは決定的に痛かった。


元々、『大都会』にはじまる石原プロの刑事アクション路線は、(『大都会PARTⅡ』における、ラブホを出てきたカップルがチンピラに絡まれている現場に、渡哲也と優作が通りがかるも、「助けますか?」「放っとけ!」と無視してしまうファーストシーンに象徴されるごとく)世の安定や浮かれた華やぎに取り残されつつあった男たちのための、日々飲み込んでいる調子のいいヤツラへのルサンチマン、「捨て鉢」と「ヤケクソ」の受け皿たる番組だった(そして、渡哲也の「清潔な朴念仁ぶり」は、まさに不器用なボンクラ共のよりどころだった)。
70年代、娯楽も少なく、テレビも一家に一台の時代、こうした大人の男性向けドラマが、夜9時以降の時間帯には溢れていたが、いよいよ華やぎが世を覆う80年代に入ると事情が変わってくる。
そこで、ドラマをソフトにし、暴力描写を抑え、荒唐無稽なメカやアクションのみをインフレ化させて、チビッコファンを巻き込んだファミリー枠へとシフトし延命を計ったのが、かつての『西部警察』だった。
しかし、男の子の趣味というのは最終的にはカルト化していくのが常で、テレビのゴールデンタイムが女性向けドラマに占領されて以降は、このテの企画はもっぱらVシネの世界に閉ざされて行く。


そこでは、一般作品に失われた骨太なドラマツルギー(あるいは逆にドラマを無視したギミックの過剰さ)や、輪郭線の太い演技が生きているけれど、やはりマイナー、カルトであることの天井の低さも拭いがたく、『西部警察』のような、間口の広いメジャー感が懐かしまれるのはよくわかる。が、拡大路線でインパクトを生むのに無理のある現在にそれをやるためには敢えて、世の空気に逆らって、確信犯で男のおちこぼれの側に立って「落差」を生み出し、なおかつそれをボンクラ趣味的な安定感だけじゃなく、大きなドラマツルギーに分かりやすく結び付けて、出口を演出してやる必要があった(つまり、『西部警察』の看板で『大都会』をやるべきだった)。
それには、国際テロリスト集団との戦いというのは中々おあつらえ向きではあったんだが、いかんせん、今回の製作陣にはそれだけの確信は持てていなかったようだ(村川透監督、もっと過去の自分の仕事に自信を持ってください!)。演出にも演技にもドラマにも「額面」が忘れられていては、それは唯のハリボテなのだ。


また、一方で中途半端に「現在」や「ファミリー枠」を意識したため、Vシネファン層を満足させるような、やさぐれ風味や放り出したようなキッチュさも、また持ち得なかった。


往年の『西部警察』では、裕次郎の顔で呼ばれた、勝新(普段は謎のマジシャンを装っている、インターポールの特務捜査官)や原田芳雄(国際テロリスト集団の首魁)といった大物ゲストの存在感(伊藤雄之助演じる、議事堂前に戦車を走らせ、テレ朝を砲撃する右翼の大物なんてのも愉快だった)が、ハリボテ寸前の荒唐無稽さに存在感の裏打ちを与えてたが、今回の敵ボスが神田正樹というのも、もともとの線の細さに身内的お手軽さが相まって、中途半端にドラマを安くしてしまい、寂しかった。