追記


http://d.hatena.ne.jp/screammachine/20041025


君は対立点の理解を間違っている。
本人がどんなに身じまいもわきまえも悪い、人格の破綻した人間であっても、優れた職人であることはあり得る。俺もそう思っているよ。
そして、それを俺も楽しんでしまうし、それをやめるつもりもない。


けれど同時に、その部分がいかに面白くても、描こうとするものに対する距離が計れず破綻していたり、あるいはそれを半端に誤魔化そうとするような窮屈さ、小ざかしさの方が鼻について、楽しめない場合も、往々にしてある。それは確かに損かもしれないが、簡単に変えられるとは思えないし、当面それでいいとも思ってる。
そして、そうした世界観の広さ、深さがセンスとなり、作品の形式を要請する、それがいかになされているかを、一つの価値基準にすることが間違っているとは、俺は思わない。


「成熟」という言葉の理解も、君と俺とでは随分違うようだ。
繰り返しになるけれど、俺も、簡単に人間の根本が変わるわけがないと思っているし、そう上にも書いた。その上で、やはり価値を持ち、評価基準を持つことが、人間には必要だと思っている。
一般的な成熟ができないならできないなりに、それは仕方のないことだし、そこにまたできないという個性が生まれるだろう。
サム・ライミなんかは、そういう自分の駄目や崩れをわきまえながら、それをそれとして表現するから、そこから生まれるある種の安定感を風通しをよくし、エグい作品にもある種平和な印象が生まれる。
「自分にできること」をきちんと表現する。ボンクラが無闇に批評なんかしないってのは、そういうことだ。


逆に、『キャシャーン』みたいに、身じまいの悪さが、そのまま熱になるような作品もある。それを認めた上で、間違いや足りないものについて、下のように評価した。


君が、技術や細部に淫することを「映画」と呼ぶのは、それはそれだろう。ただ、俺はそれだけを映画の見方だとは思わない。それ「だけ」を楽しむわけじゃない。
そういうことだ。