メモ 福田恆存『幸福への手帖』(『私の幸福論』)より

いったい、どんな賢者なら、「見とおしをきかし、よく計算する」ことができましょうか。自然と人間との間の、他人と自分との間の、さらに自分のなかの無意識と意識との間の、さまざまな欲望の衝突に直面して、誰がすべてを見とおし、これに決定的な裁きをつけることができるでしょうか。一人の個人に、それだけの大事業が可能であるとは考えられません。が、エピキュリアニズムは、それがいちおう可能だと考える。そう考えたあげく、一種の禁欲主義に到達したわけです。自然や他人を自分の意のままに御せないならば、あるいは自分を支配する自然や他人を御せないならば、いっそのこと、相手を御せなくとも、また相手に御されようとも、いっこう意に介しない自分を打ちたてようというわけです。が、これもまた難事業であります。自己は、個人は、それほど強くはありますまい。

あえて「快楽」とまではいわなくても、私たちは自分の人生を、また共同生活としての社会を、「快適」なものにしようという情熱にとりつかれております。もちろん、そのこと自体はすこしも悪いことではありません。が、その度が過ぎはしないでしょうか。というより、私たちはうっかりすると、そのことだけしか考えないという状態に落ち込んでいはしないでしょうか。人生を、そして社会を快適なものにするということが、現代では最高の「美徳」になっていはしないでしょうか。
快楽主義とエピキュリアニズムと社会改良主義と、その別を問いません。すべて快楽や快適を目ざすところには、その底に利己主義がひそんでおります。刹那的な快楽主義のばあい、誰の目にもそれは明らかです。ですから、大して問題にもならないし、弊害もありません。が、エピキュリアニズムのような個人主義になると、外界にわずらわされぬ「不動の心」というような、精神的美徳を表看板にしているので、私たちはその底にある利己主義に気づきにくいのです。さらに、社会主義共産主義福祉国家となると、貧しい人々の利害を考え、「最大多数の最大幸福」というような合言葉が出てくるので、そこに利己主義があるというようなことに、誰も気づかないのであります。が、それは依然として利己主義であります。快楽や快適を目標とする生きかたは、どう転んでも、この利己主義の小さな穴からのがれられはしません。私はそのことを、ここにはっきりさせておきたいと思います。

今日、「正義」の戦いを称道する人たちの大部分が、ただ勝利のためだけしか考えていない。そうなると、敗北すれば、すべては犬死であります。「快楽」が手に入らなければ、「不幸」からのがれられねば、救いはどこにもないということになる。

将来のことを考えたら、誰も自信が持てないのが当然であります。思うに、私たちは何か行動を起こすばあい、「将来」ということに、そして、「幸福」ということに、あまりにこだわりすぎるようです。一口にいえば、今日より明日は「よりよき生活」をということにばかり、心を用いすぎるのです。その結果、私たちは「よりよき生活」を失い、幸福にみはなされてしまったのではないでしょうか。
それなら、ここに、もう一つ別な生きかたもあったのだということを憶い起こしてみてはどうか。というのは、将来、幸福になるかどうかわからない、また、「よりよき生活」が訪れるかどうかわからない、が、自分はこうしたいし、こういう流儀で生きてきたのだから、この道を採る―そういう生き方があるはずです。いわば、自分の生活や行動に筋道をたてようとし、そのために過ちを犯しても、「不幸」になっても、それはやむをえぬということです。そういう生き方は、私たちの親の世代までには、どんな平凡人のうちにも、わずかながら残っていました。この流儀と自分の欲望とが、人々に自信を与えていたのです。「将来の幸福」などということばかり考えていたのでは、いたずらにうろうろするだけで、どうしていいかわからなくなるでしょう。たまたま、そうして得られた「幸福」だけでは、心の底にひそむ不安の念に、たえずおびやかされつづけねばなりますまい。それは「幸福」ではなく、「快楽」にすぎません。

もちろん、自分を「不幸」な、あるいは「不快」な目にあわせている人間を、私たちは直接に信頼することはできない。ですから、かれらと戦うでしょう。が、それで敗北したとしても、あるいはその「不幸」な状態をすこしも改良できなくても、人間というものを信じていなければならない。というのは、最後には神を信じることです。私は別に何々教というものを意味してはおりません。が、特定の宗教に帰依できなくても、そういう信仰は誰しも持てるものではないでしょうか。
自分や人間を超える、より大いなるものを信じればこそ、どんな「不幸」のうちにあっても、なお幸福でありうるでしょうし、また「不幸」の原因と戦う力も出てくるでしょう。もし、その信仰なくして、戦うとすれば、どうしても勝たなければならなくなる。勝つためには手段も選ばぬということになる。しかし、私たちは、その戦いにおいて、始終、一種のうしろめたさを感じていなければならないのです。なぜなら、その戦いは、結局は自分ひとりの快楽のためだからです。あるいは、最後には、勝利のあかつきに、自分ひとりが孤立する戦いだからです。そういう戦いは、その過程においても、勝利の時においても、静かな幸福とはなんのかかわりもありません。

私のいうことは理想論で、そうは立派に生きられぬと思う人もいるかもしれない。

よく、理想と現実とが一致しないくらいなら、そんな理想は空虚なものだ、むしろ捨ててしまった方がいいと申しますが、それは早計というものです。理想とは、それを現実に一致させるためにあるのではなく、それを支点として現実が回転し、活動するためにあるのです。また、ときに、現実はその枠を破ることがあり、そのものさしで計れぬほど複雑になることもありましょう。が、それを強いて枠の中に入れようとし、ものさしで計ろうとすることによって、混乱の整理がつくものです。
理想はひとつでありますが、個人がそれとかかわる距離や角度は無数にあるはずです。問題は、その「かかわる」ということにある。「かかわり」があればこそ、理想どおり生きていない無数の個人に、共通の生きかたが生じるのです。
失敗するなら失敗したで、不幸なら不幸で、またそこに生きる道がある。誰もが、いままで誰一人として通ったことのない未知の世界に旅だっているのです。なるほど、忠言はできましょう。が、その忠言が役に立つかどうか、それはめいめいが判断しなければなりません。第一、つねに忠言を期待することは不可能です。
究極において、人は孤独です。愛を口にし、ヒューマニズムを唱えても、誰かが自分に最後までつきあってくれるなどと思ってはなりません。じつは、そういう孤独を見きわめた人だけが、愛したり愛されたりする資格を身につけえたのだといえましょう。

私の幸福論 (ちくま文庫)

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