禁煙、嫌煙の不思議な広がり

bakuhatugoro2004-08-29

 近頃、もっとも不愉快なのは、嫌煙権をふりまわす連中のことだ。四人家族で、そのうち三人までが煙草を吸わないから、一人のために三人が迷惑することはない、家計の無駄だ、そういって所帯主の喫煙を禁じたという家庭の話をきいた。女房は、これでせいせいしたといい、息子はその分を自分の小遣いに廻して貰うと喜び、所帯主は、家族の幸福のためになんとかがんばってみると誓っているらしい。
 排気ガスを撒き散らし、河を下水にし、冷暖房で地下水を消費し、森林をなくして分譲したりしながら、なにが他人の迷惑だ。
 こういう女子供の発想がだんだん世の中を仕切るようになって、勇ましい生き方、大きな生き方、誇らしい生き方というものが、失われていく。人生というものが女子供のものになりつつある。ただ糞をたれて長生きするだけだ。そうして、ただおとなしい生き方を良識として後押しする権力者がいるから始末がわるい。
 昔は男というものは、戦争で死ぬものだった。その戦争がなくなっているから、男の生き方というものが、徳川三百年の間の浪人のようなもので宙に浮いている。病気にならず、事故を避けていれば、永遠に生きられるような錯覚におちいっている。
 これがいけない。永遠に生きられるかのような錯覚が、人間を諸事律し切れるような錯覚を産む。生物なんて蠅が毎年生まれかわるようなもので、たかだかそれだけのことなのだ。百年生きようと二百年生きようと、やっぱりたかだかだ。


色川武大『節制しても五十歩百歩』(『ばれてもともと』(文藝春秋 所収)より

 俺の少年時代、煙草とプロ野球というのは「大人の(男の)世界」の象徴だった。
 ナイター中継のせいでアニメの放送枠がつぶれてしまうのが苦々しくてたまらなかったし、地域の子供にほとんど強制される少年野球にも、あまり良い思い出はない。
 親父は世間体を人一倍気にするカタブツだったので、息子の運動オンチぶりが我慢ならなかったらしく、はかばかしい効果も上がらない練習をずいぶん強要されて、ますます野球嫌いになってしまった(侍ジャイアンツアパッチ野球軍は大好きだったけど)。おかげで、親父があまり好まなかった格闘技以外、スポーツ中継というものを見る習慣が、今もってほとんどない(だから今回のオリンピックのことも、時々ニュースを斜め見するくらいにしか知らない)。
 煙草の方も、「男の嗜み」とばかりに居間でも台所でも傍若無人のヘビースモーカーぶりで、ガキの頃にはかなり嫌悪感があった。
 そして、野球や煙草が象徴するような世界に、しっくり自分がなじむようになるとはどうにも思えず、将来を悲観したりもした。


 先々週だったか、田宮次郎版の『白い巨塔』の再放送をやっていて、これを眺めながら遅い昼飯を食うのがしばらくの間日課になっていた。
 ほとんど筋を追うだけという感じのぶつ切りダイジェスト版だったけれど、それでもドラマ自体の出来は決して良くはないことが充分見て取れた。
 けれどそこには、いつの間にか日常から消え、忘れてしまっていたあの「野球と煙草」に象徴される空気がはっきりと、濃密に存在していた。小沢栄太郎曽我廼家明蝶金子信雄小松方正佐分利信といったオヤジ連のテラテラと油びかりする厚い皮膚、紫煙の向こうの喰えない笑みから立ち上る、ねっとりと磐石に存在する、世間の空気。
 ガキの頃には、この空気が動くことなど、何があったってありえないと思っていた。それは、俺には重い閉塞感そのもので、こうして久々に目の当たりにしても懐かしくもなんともないが、やはりただただ圧倒される。


 現在の、極端な禁煙、嫌煙の風潮について、ずっと不思議に思っている。
 俺自身は体調や懐具合との相談で、時期によって吸ったり吸わなかったりのヘタレな愛煙家でしかないので、「禁煙ファシズム」なんて大袈裟に騒ぐのも、なんだかわざとらしい。
 上記のような理由で、吸わない人の不快感もそれなりにはわかるつもりでもいる。
 それでも、路上喫煙を凄い勢いで取り締まる杉並パトロール隊のおっちゃん達なんかを見ると、「たかが煙草」のことでよくここまで正義感を燃やせるもんだと、正直ちょっと呆れる。が、こういう「正義の人」っていうのはどこにでも一定数はいるものだし、上の引用で色さんが触れているような世相の変化はある程度事実としても、それだけで、ついこの間までは普通に習慣として定着していたものが、ほんの2、3年の間に全くの悪徳、とまではいかなくとも、なるべくなら慎むべき、恥ずべき悪習というくらいの位置づけになってしまっていることには、かなり不気味なものを感じる。
 出版社でも、ある時期を境に多くが社内禁煙になった。下手をすると喫煙スペースさえロクに取られていない。外様の零細フリーランスとしては、「やめるいいきっかけになりましたよ」と笑う編集氏たちに、「さんざんヤニとカフェインとストレスまみれの稼業やってきて、お互い今更手遅れだよ...」なんてちょっと思いながらもそれ以上はツッコミにくいのだけれど、いかに女子供の声が大きくなったにしろ、社会、組織の要所要所にはかつて愛煙家だったはずのオヤジ達があいかわらず座っているはずで、彼らは数十年来身についた習慣なり生き方なりを、(ある程度はポーズだとしても)こうも容易く変えられるものなのだろうか。


 新聞社の文化部で嘱託をやっている某友人にこの話をしたところ、彼の職場では、書評委員のボス格である文壇の大家が大きな手術をきっかけに煙草をやめて以来、なんとなく誰もが大っぴらに吸い難い状況になっており、そこにはたらいている心理は、ボスのご機嫌伺いが半分、自身も病気と手術にびびってというのが半分、という感じらしい。
 

 上の色さんの文章にも続きがあって、歳を得て体が不自由なまま長患いをしている知人に、嫁さんが隠微な復讐をする向田邦子の「かわうそ」のごとき光景を目にし、

 男は妻子を喰わせるために、悪戦苦闘、運を使いはたしているから、勇ましそうなことを言っても、からきしだらしがない。
 もっとも節制をしておとなしく暮らしたからといって、五十歩百歩なのだから、節制が幸運に通じるとも思わない。
 やっぱり私は、死ぬときが来たらうまく死ねるように、そのことをひたすら研究しようと思う。その研究のためにあくせくするなら、やむをえない。

と、オチをつける。
 そして数年後、彼自身この言葉通りに、男らしく本当に逝ってしまった。
 が、生き延びた多くのオヤジ達は、どんな心境でいるのだろう。
 色さんの言うように立つ瀬がないのか、それともその都度表面上生き方を変えながら、鵺のごとくタフにしっかりと空気に合わせて実を取り続けているのが彼らなのか。
 いずれにしろ、なんともイヤなリアリティのある話だ。


 目の前のものを「当然」と飲み込み損ね、頼りなさゆえに押し流されまいと意地を張ってきた根無し草の「強張り」ゆえかもしれないが、やはり気になる。