ところで、予想どおりというか


華氏911』の公開、ヒットと共に、一歩引いた感じの意見が次々に出てきたようだ。
距離の取れてる冷静な意見が出てくること自体は良い事だし、誰も彼もがブッシュ批判や風刺ギャグに熱くなる必要もない。
一時の盛り上がりがピークに達すると、反動で醒めた意見がじわじわ噴き出して来るのも人の世の常だろう。
でもね、ムーアや町山さんのアジりに、多少なりとも心を捕まれた人達に対しては、「本当にこれで終わっちゃっていいの?」とは、ちょっと言ってみたい。


今度の『華氏』の騒ぎは、イラク戦争からも一段落し、秋の大統領選に直に絡んでいるとはいえ、少なくとも日本においては、メジャーマスコミが躍起になって叩くなんてことはほとんどないし、支持にしろ、サブカル限定の、だからこそ気楽に後乗りしやすい程度の騒ぎでしかないと、正直思う。


もっとはっきり言えば、支持にしろ批判にしろ、実はメディアの表面はともかく、水面下の温度、浸透度はかなり低い。
何故か? 本当は誰もが、しっかり映画と距離をとれちゃってるからだ。
自分の現実と、実はしっかり距離があるんだよ。
盛り上がってるヤツも、本当のところは大抵、サッカー観て騒いでるレベルと変わりはしないし、「政治」や「主張」にはっきりアレルギーがあるような人はともかく、敢えて反発心を主張しようと思うほどにも揺さぶられてはいない。


だから、僕はムーアや町山さんのやってることがまるで無意味で間違ってる、と言いたいわけじゃない。
自分の小さなエゴや保身を、消費と相対主義の中に溶かして、なしくずしに開き直っているうちに、みんながバラバラのまま、結果組織的な力によってコントロールされるまま、強者は強者のリスクを逃れ、弱者は強者へと勝ち逃げを狙うばかりのような状況への苛立ちと批判には、強く、強く共感している。
だから、それが本当に、ひとりひとりに突き刺さるような方法を考えたい。
そして、自分自身が、それを引き受けるために「インチキ」を廃さなければならないと思う。


だから、この状況で「盛り上がってる」と感じてるような人は、しょせんサブカル限定のお祭りを、刹那的なレベルで待ってるだけなヤツだと断定させてもらう。
はっきり言って、そんなレベルの支持は本質的な問題に向き合う上では、むしろ「敵」だ。


例えば君達は、こういう意見に、どう反論する?


社会派くん的『華氏911』観戦記
http://www.shakaihakun.com/data/extra.html


村崎百郎氏の方は、いつものシラカバ派な芸風といおうか、結局「アメリカ人なんか元々征服民だ」「ブッシュゆるせん!と元気になってるヤツふくめ、人間、本当は誰もがエゴイストだ」「だから、そんな無自覚な連中が、ブッシュ一人を悪者にして騒いでいるこの騒ぎは最悪だ」とか、「どうせ人間なんてのは所詮…」といった、誰もが距離をとれる(だから、実は誰も責任を問われることのない)安全な一般論、抽象論を、カゲキな粉飾で誤魔化しただけの、毒にも薬にもならないもの。


けれど、唐沢俊一氏の方はちょっと手強いよ。
まず、ムーアを勇気ある人間だと認め、
その上で

ムーアのような、もしくはムーアを支持している文化人諸氏のような、極めて強い個性と才能を最初から持ち、国などに頼らなくとも自分のアイデンティティ確保に苦労しない人間たちにはついに理解できないことかもしれない。しかし、最下層の生活をし、希望もなく、自分の存在意義をどこにも確認できない者にとって、自分の行動を、国が賞賛してくれる(例え裏で何をどう思っていようと)という事実は、命を敵の前にさらす価値の十二分にあるモチベーションなのである。


という、合理で割り切れない人間の現実を押さえ(が、実はムーアはすべての戦争、軍隊の存在を否定してるわけじゃないし、むしろ軍隊が極端な右翼や貧困層だけになって一人歩きすることに反対し、その意味と必要を国の主権者たる国民が責任を持って直視すべしとする姿勢をとっているのだが)、

(今よりさらにみじめな状況に身をおかねばならなくなっても)それでもなお、自由の身の上がマシだ! という思想を持って世界にメッセージを発しているのがビン・ラディンであり、マイケル・ムーアなのである。


と指摘、それが果たして万人にとって可能なことであるのか、という穏当な疑問を前提に、『華氏』の、ブッシュを悪玉にすえた極端な図式化が、選挙登録していない貧困層に訴えるための戦略であることを踏まえたうえで、自分を謙虚に省みることの無い、絶対正義のプロパガンダが一人歩きすることの危険を説く。


プロパガンダの細かい定義だとか、ムーアは「反戦」なんて言ってないとか、そういうセコい話じゃなくて、きっちり唐沢氏と論争できる、ムーア支持の人っているかな?


というかこれ、実は、先日町山さんに対して俺がやったツッコミと、ほとんどそのままかぶってる。
ただ一点、俺がはっきりと唐沢さんと見解が違う点がある。

はっきり言うが、今現在の日本の論壇でムーア批判を行うのは、非常にソンな役回りである。

唐沢さん、はっきりそれは「無い!」よ。
一般には、せいぜい映画がちょっとヒットして、おっちょこちょいのお祭り好きが盛り上がったり、論壇やネットの議論好きがしばらくネタに重宝するくらいのことで、本当の根っこのとこじゃ、大方は醒めたものだし、そうした一過性のものだってことを賢明な唐沢さんならば、よく見通していればこそ、取りあえずベタな意見にはツッコミ入れて自己主張せずにはいられない、ヒネクレ相対主義者的インテリやサブカル者相手に、確信犯でこうした文章書いているわけでしょう?
特にあなたの生息領域では、むしろ多数派だよ。
そうじゃなければむしろ、現状認識を見誤って騒ぎを大袈裟に受け取っちゃうくらいに、何かに対する無自覚な被害妄想が膨らんじゃってるってことなんじゃないか?


しかし一方、この世界に対する「当事者意識」と、そこで手を汚している自分の後ろめたさを直視することだけは巧妙にさけて、サブカル祭りのトリックスターとして、遠巻きにムーアを評価(して、「リベラル」って位置だけは押さえる)、ってな文化左翼ふうの連中は確かに多い。
こうした連中は、唐沢氏のような指摘を「織り込み済み」って顔をして、端から相手にしないだろう。
だってこの連中、はじめから自分達のシュミ仲間の空気の方しか、見てないし気にしていないんだから。「住み分け」に安住した上で、「やれやれ」ってなポーズでちょっとだけ世界を憂いてみたり考えてみたりすることが、かっこよくて好きなだけなんだから。
「暢気にかっこつけてるお前は何なんだ」って、外部から突きつけられることに対しては「極論」「暴力」「野暮」ってふうに端からシャットアウトしてるし、ボロを出すほど突っ込んだ議論をすることもなく、ウォッチャー的ふるまいで「わかってますよ」というポーズを気取るだけ(ただ、そこにはもう唐沢さんたちのような、浮き上がった少数者、マイナーなへそ曲がりとしての矜持の意識なんてありはしない)。


そう、彼らは「釣り」に対して極端に構える2ちゃんねらーみたいなもんだ。
罠だろうが挑発だろうが、誰恥じることなく堂々と展開するだけの立場や持論なんか、はじめからありはしない。
だから、引き受けることによって弱みや隙を生む「立場」を、自分が背負ってしまうことだけにビクついてる。
だから彼らが、いくらしたり顔でかっこつけても、本当は唐沢さんのシビアな指摘の説得力に、まったく傷をつけることはできない。
そして、ムーアの正義が風化し流行遅れになったころには、その時の気分なんかすっかり過去にして次に行っちゃってる。
肝心の問題を骨抜きにして、しゃぶりつくしておいてね。
(本当に町山さんが、こうした連中と一緒に、「どうせ俺達ボンクラですから」なんて、嫉妬も責任もかわしたズルい安全地帯への居直りに、今後取り込まれてしまわないことを心から祈るよ!)


こうした帰趨を考えるに、さっき「毒にも薬にもならない」と一刀両断にした村崎さんのような俯瞰的な感傷こそ、「自分を棚に上げる」ことが前提の世の中にあっては、結局最終的には「穏当な意見」として残ってしまう、俺達自身の本質を示している。
表面的にいろいろ取り繕っても、結局俺達のほとんど全員が、ここから一歩も出てはいないんだよ!
だから唐沢さん、あなたが単独者として、そして芸人としての矜持を持つならば、本当に相対化し、そして笑いのめさなければならないのは、時代遅れの絶対正義などではなく、水面下で揺ぎ無く変わることの無い、この世界を覆いつくす「偽善」と「感傷」の風土なんじゃないのか?


そしてそれは、本当は「相対主義」だけでは破ることはできない。
どんな人間だって、この世で誰かに関係して生きている以上、必ず何かの恩恵を預かり、世界に関与して生きている。
自分と世界とは関係がある。自分にも世界に対して何がしかの責任がある。
ならば、世界に関わっている分、自分はどういう形で責任を負うのか。
それを拒否するならば、どう、かかわりを拒否するのか。
それは、どう可能なのか。
こうした問いの中で自分を律し、方向付け、引き受ける実践の中にしか、無責任な「偽善」や「感傷」を退け、距離を取り、乗り越えることはできないはずだ。
『華氏』に心を掴まれた人も、「絶対正義」の短絡にツッコミを入れている人も、それ自体がポーズじゃなく、本当に自分達の問題としてその先に行きたいと思っているなら、ここは誤魔化さずに考えてみて欲しいと思う。
(少なくとも、アメリカのメジャーマスコミに対する批判として、『華氏』はその存在そのものがムーアの実践だったと思う)


町山さんへの問いかけの後、僕達は世界の競争の当事者であり、だから僕達の平和もタダじゃない、
だとすれば、自分は無関係という顔をして、なしくずしに貧困層に兵役を押し付けるのではなく、社会が等分にそれを分け合うべきではないか?
しかし、例えば派遣された戦地において、他国の捕虜虐待の現場に居合わせたにも関わらず、組織の事なかれ的な態度によって、これに抗議ができない、
これが後に世論の知るところとなり、黙認の事実が糾弾される、なんてことになった場合、
俺は「やむを得なかった」と言い切る自信もないし、かといって場の空気に抗って、他国の兵を制止できたとも到底思えない。
こうした事態についてどう考えるか?
あなたならどういう行動をとるか?という質問を、読者に対して行った。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040804


が、当時一日3千あまりのヒット数があったにも関わらず、これに対する反応は一件もなかった(婉曲な形で、「自分は生存競争を前提にするような人間観に立たない」「自分を規定する公的なものとして、国という単位を考えていない」といった声は聞こえてきたが、しかしこれには、じゃああなたは自分が現に競争の当事者ではないと思っているのか、遠くの誰かよりも、家族や身内を優先し、そうした小さな共同体を守るように行動をしている(そして今のところ、その先には確かに「国」がある)という事実を認めないのか? と、その「自分の棚にあげ」っぷりにあきれるしかなかった)。


この事実を、俺はどう考えるべきなのだろうか?
単純に、俺の力不足、もしくはやり様のマズさってことならいいんだが。