id:narkoさんのトラックバックに応えて

bakuhatugoro2004-08-08


http://d.hatena.ne.jp/narko/20040808
コメント欄より転載&加筆


いや、ここは乱暴に言い切るけど、カウンターカルチャーは結局「正しくなかった」んだよ。大方のヤツは結局誠実に自分を省みることができなかったし、誠実にそれをやった人は、その中で自分のエゴ(つまりは素の人間性)まで否定していった。ある出来上がった流れの中で、「できない」ことを「できない」って言うことは、もの凄く難しいことだから。


あと、考えるべきことは「楽しさ」の質の検証。例えば、俺は町山さんの引き合いに、薬害問題と戦った頃の小林よしのりを挙げて肯定的に書いたけれど、正直な俺個人の感想を言えば、あの時期(から)のゴーマニズム宣言は面白くなかった(でもまた、最近のポピュリズム批判の文脈は、ちょっと面白くなってきた)。ある目的、ある悪者に作品の方向が収斂しちゃって、ちっともその切っ先が自分に帰って来なかったから。


だけど、大多数にはそれが「面白かった」りもするんだね。自己検証するほどの動機も無かったりするから、流行の天下り正義に便乗して、用意された悪者叩いて溜飲下げられれば充分だったり。
自分の持ってるエゴと立場をひとつひとつチェックして、他人のそれとすり合わせていくことはスリリングなことだけど、同時にたいていの人間は弱いから、その緊張感と迂遠さに耐えられない。
じゃあ、どうするか?ってところが大切なんだと思う。


敢えて言えば、「負け方」が重要なんだと思う。


人間を、自分を、もっと良いものだと思って、誠実にその限度に対していくってことは、凄く大事なことだけど、誰にだって必ず限界はある。
それをちゃんと自分の「人間観」として受け入れずに、曖昧に流して負けを受け入れなかったり、あるいはそれ自体恥でもなんでもない残った自分の現実を、前向きに受け入れることができなかったり。
カウンターカルチャーも、オタクも、きちんと「負ける」通過儀礼を経ずに、ずるずるとヌルい言い訳や、自閉、ずらしを続けてるなあ、っていうのは実感。
そこから何も生まれなかったとは言わないけれどね。


ノスタルジーへの違和感は良く分かるんだけれど、同時に、「今」と「自分」しか見ようとせず、歴史の「縦」の広がりも「横」の世界観の広がりも失って、点になっちゃってるような、そして矛先が曖昧なオナニー化してるようなせせこましさを、オタクに限らず新世代に感じるのは事実。
当時のガイナックスが今のオタクと違う点っていうのは、戦争を体験し、また戦後の高度成長を支えた自分の親や、アニメってジャンル自体を立ち上げた先行世代への畏怖と緊張感っていうのが凄くでかかったということ。


エヴァを作る前に庵野さんが作った「逆襲のシャア友の会」っていうミニコミがあって、その中で先行世代の富野さんへのコンプレックスから逆照射する形で今の自分達の姿、そして例え恥ずかしくても、カッコ悪くても、そんな自分が引き受けるオリジナリティを突き詰めていってる。
これが、エヴァを準備したんだなってことがよくわかるミニコミで、僕はアニメに関するあらゆるムックの中で、いまだに「本気度」でこれを超えるものはないと思ってます。


あと、これは本当のところは当事者達にしか伺い知れないことだけど、ガイナックスの中でもそれぞれの立場の違いがあって、岡田さんのガイナ離脱も当時いろいろゴシップ的に喧伝されたけど、根本ではそこが大きかった気がする。
庵野さんや山賀さんには、はっきり相対主義への苛立ちがあるし、それを超えることを常に意識してる。
そのあたりは、98年頃に「クイックジャパン」で竹熊健太郎さんがやられている、山賀さんのインタビューなどから、ある程度読み取れると思います。


あと、庵野さんの「直球」だったエヴァに対する岡田さんの当時の反発なんかも、ちょっと今のムーア批判にかぶるものがあるかな...


サブカルチャーの歴史を点検する意味で、実はガイナックスの歴史を(岡田さんの側からだけじゃなく)紐解くことは、すごく面白いし意味もあることだと思うんだよね。エヴァ以前から「王立」ページの佐藤君(彼は、ここhttp://d.hatena.ne.jp/gaikichi/をやってる骸吉君でもある)はずっとやりたがってるんだけど、双方のガードが固くて無理だろうなあ...残念なことに。


あと、長谷川和彦監督http://www.tcn.zaq.ne.jp/wonderbear/index3.htmlについては、俺は「オタクや引きこもりの元祖」ってとこが、実は凄く大きいと思う(そういう意味でも彼の『連合赤軍』と山賀監督の『蒼きウル』には、カウンターカルチャーとオタク世代それぞれの総括と可能性を見せる意味で、何としても完成して欲しい!)。高度成長期が終わり、目標喪失で子に依存する親をぶち殺し、でも自分にも行き先がない。「それでも、生きてやる!」って意地だけで、一人いずこへともなく流れていく「青春の殺人者」の水谷豊。あれが自分だな、と俺は自己規定してますね。
(だから、「サブカル国の住人」とはとても言えないな。サブカルって枠に籠った特化のしかたみたいなのは、むしろ嫌い)


総括すると、俺は(ムーア自身のゲリラ戦の本国での実効性はともかく)なしくずしじゃないちゃんとした「負け方」と、「その後」っていうのを考えたい。自分が町山さんについて書いた一連の文章の本当の意図、実はそういうことだったんです。