この「愛国」イデオロギー(に限らず、ほんとは「自由」でも「平等」でも何でも)と民主的大衆の話に関連して

面白い!
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20040807

日比谷公園から重慶サッカー場へ」と前回仮題につけた「日比谷公園」とは・・・・そう、日露戦争講和の内容が屈辱的だとして戦争継続を叫ぶ群衆が、警察や新聞社を焼き討ちした事件の現場という意味だ。


関川夏央が「大衆が、このとき日本に初めて生まれた」と書き、司馬遼太郎が「『明治』を、ひとつの国家とみなすなら、この日比谷焼き討ちをもって明治国家は終焉した」と記したこの事件(・・・註:関川、司馬の発言はうろ覚えです。)は、たしかにリアリズムを消失し夜郎自大に陥った日本の大衆の暗部だが、同時に怒れる民衆が、政府の便利な道具ではなく彼らに時として立ち向かう存在になった記念日でもある。


で、さらに前回、フーリガンと水戸浪士を対比させたのは何か。
結局水戸の尊王論は、多くの紆余曲折やらはあるにせよ、(天皇から宣下を受けた)将軍職の権威を守るための公認思想がもともとであったという点を愛国教育と比べたという話。
愛国も尊王も、はじめは支配者が支配を正当化するためのものであった。
しかし、公認の思想は、公認であるがゆえに大声で唱えることができ、さらに本気、演技に関係なくその思想に寄りかかって他者・・・とくに現実と妥協し純粋性を欠く現支配者に向けて放たれる矢ともなる。

しかし、公認の思想は、公認であるがゆえに大声で唱えることができ、さらに本気、演技に関係なくその思想に寄りかかって他者・・・とくに現実と妥協し純粋性を欠く現支配者に向けて放たれる矢ともなる。