追加 8月4日分へのトラックバックに応えて

http://d.hatena.ne.jp/kikori2660/20040807

まず、挑発的な書き方をしたにも関わらず、冷静な対応いただき感謝。
ちょっとあなたを誤解してたみたいですね。


ただ、「愛国者」クン、に、侮蔑の意図は、はっきりありました。
確かに、俺のナショナリズムを求める人の定義は粗雑で一方的です。
本当は、個人は中空に独立したものとして形成されるものであるわけがないし、己の来し方、伝統的文化風土や、時代状況の中で作られ、それに縛られ、また守られ依存している自分に対しての無自覚が蔓延しているのは問題だと思う。
けれど、出来合い、額面の主義にすがって、己を省みず居丈高になってるって意味では、右も左も五十歩百歩だと思う。
自分の限界を直視して受け入れることと、それを超えようとする緊張感の中で逡巡しつつ編まれる言葉じゃなきゃ、俺は信用できない。


あと、「三人への世間の批判=戦時中の非国民糾弾の空気=ウヨク」という理解は、はっきり違う。
俺もそうだし、浅羽氏も、そういう意味で「非国民」っていう比喩をしてるんじゃないよ。
世間への依存心を持ちながら、かつての土着共同体のような器を失った現在の大衆のはけ口になったと俺は捕らえてる。
浅羽氏も、3人の「自作自演」疑惑そのものの灰色加減や、その甘えについての指摘も前提として踏まえていて、その上で彼の興味がそっちにあったということだと思う。
俺も、メジャーメディアの戦後民主主義ヒューマニズムを盾に取った、責任を受け手に押し付けつつ媚びる、ポピュリズムを利用した世渡りは当然嫌だけれど、それを右対左っていう枠組みでやることに、もう意味は無いんじゃないかと思う。


ネット論壇の保守化は、そうしたメジャーメディアの偽善に封殺されたものの反動で、当然の帰趨と思うけれど、それも結局、自己を相対化する強さを持たない便乗(だからこそ、無反省で居丈高)には見えちゃうよね。
例えば、2ちゃんねらが、小林よしのりネット世論批判(に象徴させたポピュリズム批判)なんかにすぐムキになるけれど、自己をさらしたながら作られる立場を試されない無責任性や弱さと(その帰結としての煽りの自動化というどんづまり)いう、ツールとしての弱点を自覚しながら、世間的利害から自由なところで吐ける本音のミもフタもなさとか、その広がりや容赦の無い相対化から生まれるある種の公平性なんかの長所は認めて、距離とって使いまわして行けばいいだけであって。
「2ちゃんねら」とかいうアイデンティティの持ち方が、そもそも場に依存してて、世間的な尻尾を自白してる感があり情けない。
彼らにはもっとクールに強くあって欲しいね。


あと、

岡田氏と町山氏の立場は違う。岡田氏はアメリカに住んでいる町山氏の焦燥を知らない。アメリカに住んでいないものがムーアに文句を言うべきではない」という意見が聞こえる。でも、立場が違うのなら、当然取るスタンスが違うのは当たり前の事じゃん?

というのは、確かにそうだ。
立場を引き受けてやりあうんなら全然OKだし、自分の立場を保留にしたまま(保留自体がいけないってことじゃないよ)偽善的なポーズや他者なき安易なヒロイズムに酔い、自閉してる向きが多いことも確か。
けれど、詳述してきたように、消費相対主義になしくずしになってるうちに、現実に向き合う強さと謙虚さを失っている自分達に対する無自覚は、やはり俺は問題だと思う。
ムーアプロパガンタそのものはともかく、町山さんにはそういう現在への苛立ちや批判は確実にあって、そこを揺さぶろうって意思を持ってる。
そこには俺は強く共感します。
だからこそ、それを絵に描いた餅にしたくなくて、敢えて厳しい指摘もしました。


kikori氏にも、町山さんのアンチと化しちゃうんじゃなく、そこへの前向きな考察に向かって欲しいと思う。
(ちなみに、山形浩生さんの人質問題への固執にも、そういう意味で不毛さを感じてることは確か)