このところ、何度となくこの日記で繰り返してきたことだけれど

僕たちは「何が正しいのか」「何が美しいのか」について、本気で考える機会を持たずに、ずっと生きてきてしまったのだと思う。
それがこのところ、blog界隈で「正しさ」についての議論がにわかに熱く交わされているようだ。


その発火点はやはり、町山さんの「華氏911」を評価、というよりプロパガンタ(と言っていいと思う)する一連の日記だろう。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/


私利私欲で戦争を起こし、多くの人間の命を奪っているブッシュを断罪し、また、状況に対して受身になっていると、知らず知らずのうちに大きなものに搾取され、また加担していることになるという様々な事実に対する告発。


僕はと言えば、そこで実証的に語られているディティールに圧倒され、気持ちをかなり揺さぶられながらも、正直に言って、一般に報道され、流通していること以上に、それがどれだけ本当に事実なのかを確かめる術を持たないし、能力もない。日常の事ごと、いや、趣味に対してさえ優先させ、その真相を少しでも知り行動しようという情熱を持つこともできない。


そんな僕が気になっていることは、自分たちの中に正しさを持たず、社会生活の中で正しさを実感できない自分たちの根の無さ、頼りなさについてだ。


僕たちの社会からは「みんなが貧乏である」から「みんなで力を合わせなきゃ生きていけない」という実感の前提が失われてしまった。だから、みんなで豊かさという幸福を求めるという、生きる意味や方向が失われてしまったし、大きな力から身を守るためにみんなで連帯し、団結するということができなくなってしまった。
誰だって本当は強者の側で安楽に生きていきたい、けれど、強者として嫉妬を受けたり、悪者にされてしまったりするのも嫌だ。誰もがそんな不安定さを抱えて、そうしたお互いの下心を見張り合う。


この間のイラクの人質事件バッシングなどは、ああした異常事態によって「弱者」「正義」という「特権」を彼らが得てしまうことに対する、不安定な大衆からの先制攻撃だったと僕は見ている。


自分の中にも悪はあり、自分も権力の側に見られかねないし、実は行きたい。誰もがそうじゃないか。正義など、弱者の嫉妬と自己正当化に過ぎない。


そういう不安定なもやもやを抱えている僕たちは、だからこそ実は、権力はちゃんと存在するし、悪はある、社会には隠された落差や断層がまだいくらでも存在している、と自信を持って示してくれる人が現れると、潜在的な正しさへの欲求や後ろめたさを強く揺さぶられる。


誰の目にも明らかな悪を(しかもカッコ悪くならない形で)指差して正しさに連なりたい、信頼できる大きなものを回復したい。


あるいは、そうした集団のノリに体質が合わずはみ出してしまうような者は、何としても正しさの粗を探したいと思う。