最近、何がウザいって、

PTSDって言葉ほど鬱陶しいものはない。
そんなこというなら、関東大震災や戦時中の空襲くらった世代は、全員PTSDだよ。
いじめだの、ドメスティックバイオレンスだのいろいろあるけど、はっきりいってそういうものが無くなるってことは絶対にない。
どうしたって運不運という理不尽は厳然と存在するし、幸福に見放された人生っていうのは、当たり前にある。
だから人間、歪んじゃう時には歪んじゃう。
そういう、当たり前のことが、どうも俺達にはわからなくなっちゃってるらしい。
「自由」とか「平等」っていうのは、現在そういう事実を誤魔化して、勝ち組の利を隠蔽する言葉になってるよな。


この間の佐世保の事件を間近に見た友達とか、宅間守におどりこまれた小学生とか、はっきり言って運がいいと思うな。
良い勉強をしたと思うよ。
この世には自分の予想を超えた理不尽ってものがある。
逃げ場を奪われた人間は、人を殺すことだってある、なんてことを、理屈じゃなく体感的に思い知らされたわけだから。
トラウマ引きずって、考え続ける材料があるなんて、いいことだよ。
誰もがあたりまえに差別や暴力を抱いてるって根本は変わらないのに、
うまく帳尻合わせて誤魔化されっぱなし、
殴ってる方も殴られてる方もそのことを意識できなくなってるようなこの時代にあっては、本当に貴重な体験だ。


俺だって、平和に安穏と生きていけたらいいとは思ってるけど、同時に大地震とか、北朝鮮のミサイルとか、アルカイーダのテロとかくらって、何万人か死んでみた方がいいんじゃないかなんて、結構本気で思うことがある。
貧富の差が、隠蔽しきれないくらいものすごいことになった方がいいんじゃないかとかね。
ひどいことがいっぱい起こって、大勢の人が不幸になるだろうけど、恨みや憎しみにしろ、それを嫌悪し恥じる心にしろ、対立にしろ連帯にしろ、暴力にしろ優しさにしろ、いろいろなものがはっきり出てくるし試されると思う。
ごまかされながら、しわ寄せ食らった弱いヤツが孤独に暴発。みんな適当にごまかして忘れるなんて状態より、ずっときっぱりしてていい。


人間の理性なんていいかげんなもんだから、無理やりに外界からの暴力で思い知らされないと、わざわざ面倒くさい、キツいものなんて見やしない。
インテリさんは、軽々しく「個人」が大事なんていうけどね、自分がどこにいるかをつき放して眺められるだけの心の強さと頭の良さ、どうしたいのか、どうなっていきたいのか、何がいいことなのかっていう意思と方向がなければ、実は「個人」なんて成立しやしない。
つまり、個人なんてほとんど全く「存在していない」。
昔は「貧乏は嫌だ」「金持ちになりたい」って目標がはっきりしてたから、そこに夢中になっている限りうまく紛れてたけれど、それがなくなったらみんな他人がうざくなって、ばらばらになりっぱなしだ。
「個人」なんてえらそうに言ってるヤツらをみても、結局「自分の方がよくわかってる」ってことを主張したいだけ。それが全部じゃないか。
実は自分の中に「正しさ」がないから、いつも回りの動向を伺い、そして誰かがボロを出すのを待っている。
誰かがボロ出さないと、自分の正しさや優位を示せないし、みんなでつるめないからね。


ネットだなんだって言ったって、佐世保の小6女子や、イラク人質事件を叩いて喜んでるヤツらなんて、関東大震災の時、朝鮮人狩りやった連中とまったく一緒じゃねえか。


俺たちはずっと「正しさ」について本気で考えてこなかった。
「正しさ」を求めることは極端さにつながる。
原理主義」っていう極端さは悪で、それを排除することこそが正しさだ、
それが民主主義だと思い込んできた。
悪を指差せば、自分が正しくなるって、場当たりなごまかしでやってきた。
そうやって、「極端」を必要とすることもある、不運な個人と人間性を暗に排除してきた。


「ほどほど」だけが正しいなんてごまかしで自分を正当化してれば、人間の暴力や差別願望が消えるなんてこと、あるはずが無い!
消えるはずが無いものを処理したつもりで隠し続けることこそが、本当は何よりも悪なんじゃないのか?
大切なのは帳尻あわせじゃなくて、人間がそんな便利でおさまりがいいものじゃないってことを思い知ること、
いろんな方向に極端なヤツがいて、合争いながら存在していくことを認めることなんじゃないだろうか。


少なくとも、表現の世界が引き受けるべき「仕事」というのはね。