窪塚洋介の飛び降りに関して、友人の日記

http://d.hatena.ne.jp/pimple_wrinkle/20040606を読んで、深く頷く。


しかし、9階から飛び降りて無事っていうのにまず驚いたよなあ。凄い。同じおクスリ好きでも、ジョニー大倉の窓懸垂を超えたか!?
と、どうしてもまずおクスリ繋がりで考えてしまうけど、考えてみると、例えば今、俺達がショーケン見ながら感じる苦しさなんかの根も、確実にこの辺にあるんだよな。

彼は流動的に流れにまかせて生きていきたいと願っていたらしいが、その流動的という言葉に、自らががんじがらめになっていたように感じる。

「自分にいい子でいすぎる」ってことは、「自分が(人間が)いいものであると、過信しすぎる」浅はかさにも通じる(だからそれは「人間なんてどうせ」という極端な厭世にもひっくりかえりやすい)。無反省な思い込みの垂れ流しを、個人的な個性の魅力で補って、それが許されているうちに自分を見失って勘違いしてしまう。そして、その勘違いや浮世離れっぷりのぶっとび方が面白可笑しくて、僕らはショーケン達を支持した。
まだ世の中の底が今ほど抜けていなかった時代には、突き抜けきることにも、かなりの資質やストイシズムが必要で、僕らはそんな彼らにある種敬意を感じ、また形骸化したものに乗っかり続けるズルさに風穴を開ける開放感やヒロイズムを感じていた。
でも、今やそれは、「可笑しい」、よくてもせいぜい「可愛らしい」ものでしかないんだなあ。
ショーケンや優作達にしたって、どこか「芸人の領分」っていうのがはっきりしていて、だからその中でスタイルを作っていけた勝新のような先輩とは明らかに違う。もちろん、その余裕のない生々しいガチンコぶりが僕らには魅力で、大人にとってもそれが新鮮で可愛らしかったんだろう。


でも、もう僕達はそんな追い風に甘え、酔うことはできない。下の世代にとっては尚更、はじめからそうだっただろう。
例の小6殺人事件で、またいろいろ映像の規制なんかがもぐらたたき的に喧伝されそうな気配だけど、自分を見ている神様もおらず、社会が積み重ねてきた美観や恥の感覚もなし崩しになり、形を失って、それぞれが「思いたいように思えばいい」っていう状況だと、瞬間瞬間の目の前のものの影響の「はずみ」っていうのが、特に子供にとってはでかくなっちゃうだろう。小6なんて、生意気盛りなのに経験不足で、そうでなくてもそれぞれが凶暴で不用意に傷つけあう年頃だ。
そして、人は日常に形や歯止めのリアリティを失うほど、頼りなさから「何か」を求めてしまうものだ。そう感じる自分の心理の背景と、自分の限界へのチェックが入らないまま、ひとりよがりに。
むしろ、今は誰も、「いい子でなくても良い」って思ってるわけじゃなくて、「いい子」の基準を持たず、そういう覚悟をできないまま、「いい子でいられさえすれば何やったっていい」、と思って、お互いを荒ませてるようにも思う。


お互いの顔色を伺うだけでなく、毅然と「それは違う!」と言えるようになりたいが、それが彼らに説得力を持つための道は遠そうだ。考えすぎると、かえって見当がつかなくなってくるよ。